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広忠公御死去之事

2021年07月24日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 15:01:48.78 ID:dZYeMb47
広忠公御死去之事

天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。そういうわけで
岡崎でも頼るべき方なく、そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、この3人は申して「織田
備後守(信秀)方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎
へ帰城させ、守り立て申すべきだ」と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには「今川義元はすでに領内3ヶ国
で4万余騎の大将なので、この力をもって本意をさせ申すべきだ」と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、

「尾張と一味ならば早速本意となろう。さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の
軍勢をもって取り詰められることになって、たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万
余騎の着到であったが織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、五分の三つは味方
が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い
申すべし」と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番
を入れられたのである。朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)
を頭とし、義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、それより是非なく岡崎は
駿府を守って居り申した。

――『伊束法師物語



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