357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/28(水) 16:45:08.06 ID:PxtMUnPr
天正十六年(1588)八月、出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、上杉軍の本庄繁長は
東禅寺義長を討ち取った。この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した
「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、屋形(義長)の
討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、本庄を討って再び庄内の地を踏み、
本意を達しようと思ったからである。しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし」
そう言って取って返した。その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしており、右馬頭は旗も前立も
相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば「越前守(本庄繁長)被官なり!大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、「高名致し候!」と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて
「東禅寺右馬頭!」
と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、割れよ砕けよと二打打った。
しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、兜は斬り割られず、左の
吹き返しが斬り割られ、さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、右馬頭を跳ね返し、
脇より立ち会い、右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。
本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。
右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。
(管窺武鑑)
「本庄正宗」の由来について
358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:39:09.52 ID:tRsnVVM2
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/36/15/22/src_36152261.jpg

現在、かつての本庄氏の本拠地、現在の村上市・村上市郷土資料館にこのときのものと言われる本庄兜が所蔵されている
>兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ
とはあるものの画像をご覧の通り、額右上側に星(トゲトゲ)が崩れた部分が見て取れると思う
ここに刀を受けたらしい
なお画像内解説文の上州八幡銘は、現在の群馬県高崎市八幡(やわた)町の職人ではないかとみられる
上州職人による上州兜と呼ばれる逸品は、上杉、武田共に愛用されている
金沢市の加賀本多博物館にも本庄兜と呼ばれる派手目の当世兜が伝来する
これは本庄長房が本多政重のもとに一時仕えた折に置いて行ったのではないかとも推測されている
359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:46:14.65 ID:tRsnVVM2
おっと、甲冑用語としては上州兜っていうか上州鉢でしたね
直江兼続の愛の兜もこの上州八幡の上州鉢で、現存する銘入り上州八幡は三つしかありません
360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/29(木) 18:32:42.26 ID:vKpBEX+E
勢力圏内だった順番に上杉、武田、北条で職人に発注してたってことですかね?
大名家他に伝来して現存するっていうと上杉家以外はどういう残り方してんのか、研究者の方々に聞いてみたいところ。
天正十六年(1588)八月、出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、上杉軍の本庄繁長は
東禅寺義長を討ち取った。この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した
「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、屋形(義長)の
討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、本庄を討って再び庄内の地を踏み、
本意を達しようと思ったからである。しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし」
そう言って取って返した。その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしており、右馬頭は旗も前立も
相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば「越前守(本庄繁長)被官なり!大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、「高名致し候!」と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて
「東禅寺右馬頭!」
と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、割れよ砕けよと二打打った。
しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、兜は斬り割られず、左の
吹き返しが斬り割られ、さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、右馬頭を跳ね返し、
脇より立ち会い、右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。
本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。
右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。
(管窺武鑑)
「本庄正宗」の由来について
358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:39:09.52 ID:tRsnVVM2
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/36/15/22/src_36152261.jpg

現在、かつての本庄氏の本拠地、現在の村上市・村上市郷土資料館にこのときのものと言われる本庄兜が所蔵されている
>兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ
とはあるものの画像をご覧の通り、額右上側に星(トゲトゲ)が崩れた部分が見て取れると思う
ここに刀を受けたらしい
なお画像内解説文の上州八幡銘は、現在の群馬県高崎市八幡(やわた)町の職人ではないかとみられる
上州職人による上州兜と呼ばれる逸品は、上杉、武田共に愛用されている
金沢市の加賀本多博物館にも本庄兜と呼ばれる派手目の当世兜が伝来する
これは本庄長房が本多政重のもとに一時仕えた折に置いて行ったのではないかとも推測されている
359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:46:14.65 ID:tRsnVVM2
おっと、甲冑用語としては上州兜っていうか上州鉢でしたね
直江兼続の愛の兜もこの上州八幡の上州鉢で、現存する銘入り上州八幡は三つしかありません
360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/29(木) 18:32:42.26 ID:vKpBEX+E
勢力圏内だった順番に上杉、武田、北条で職人に発注してたってことですかね?
大名家他に伝来して現存するっていうと上杉家以外はどういう残り方してんのか、研究者の方々に聞いてみたいところ。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
「本阿弥名刀秘録」でも再現されてた話ですね。
沖田畷の戦いでもそのような話があったりと、
結構曲者がどさくさ紛れに本陣まで入り込む例はあるようで。
( 2021年07月28日 22:04 )
人間七七四年 | URL | -
謙信「どうも曲者です」
( 2021年07月28日 23:33 )
人間七七四年 | URL | -
>右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
本庄なのか、本城なのかハッキリしろよ!えーっ
( 2021年07月28日 23:50 )
人間七七四年 | URL | -
首実検の時に大将が刀に手をかけておく作法があるのは、首が飛んだり喋ったりとかじゃなくこういう事例がままあったからなのかもしれないね。
( 2021年07月30日 12:16 )
人間七七四年 | URL | -
右手に抜き身の刀を持っているのに
新たに三尺八寸の太刀を抜いて斬りかかるのは妙だと思ったけど
この件に関する他の史料だと太刀ではなく刀のままだった
( 2021年07月30日 19:39 )
人間七七四年 | URL | -
敬礼の習慣が出来たのも、フルフェイスの素性が知れない人々が陣地内をウロウロしてるから、でしたっけ。バイザー上げる動作と聞いて凄く納得しました
( 2021年07月31日 06:06 )
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