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直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    やっぱり出頭人はやっかまれるというか、なにか不手際があるとすぐ身分のことを言われるなあ
    才覚一本でやっていくには辛い世の中だ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    そもそも本隊が総撤退した以上、粘っても援軍が来るわけでなし本領の壁となる意味もなしな状態なわけで、無駄に血を流しても仕方がない場面だと思う
    こんなもんどうしろというんだ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    上杉本隊が米沢~山形間を結ぶ狐越街道を押さえた長谷堂城で大敗し
    同様に長谷堂のすぐ南にある上山城の攻略にも失敗した時点で遠く北に離れた谷地城も捨てさせるべきだったけど
    直江も逃げるのに精一杯でそんな余裕も無いしね
    言い訳せず自分の誤りを認め下秀久の降伏は仕方なしと割り切れば良い話なのに

  4. 人間七七四年 | URL | -

    江戸時代の価値観だと寝返りとか論外だからこういう書き方になったんだろう
    直江兼続は家名が途絶えてるので責任を追わせるに最適
    調べたら下秀久って国人領主の流れっぽいけど改変して下男にされたのかね?

  5. 人間七七四年 | URL | -

    兼続ら指導部は敗戦についても非難されてないし、権力基盤にも傷ついてないし、実質はおろか名誉的な責任すら取ってなくね?
    実際に責任取らされたのはここに出てくる下ら敗残の将兵や山浦国清みたいな所領激減に伴い半ば追放される形で出て行った連中だと思うよ

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