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直江兼続と鉄砲

2021年08月08日 18:02

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 18:22:17.81 ID:6p8TSKjR
兼続(直江兼続)は当時にあって最も精鋭の武器である鉄砲の鋳造、及び射撃の錬磨を奨励した。

慶長9年(1604)、かねて伏見にいた時、景勝(上杉景勝)に従って所々歴覧の折、盟約ある良工
和泉国堺の和泉屋松右衛門、近江国住友村の吉川総兵衛を米沢に召致、工場を関村高湯に設置して、
鉄砲を鋳造させて各禄2百石を給し、その従弟と共に城市に居住させた。今の鍛冶町である。
火薬・軍器を調製させ不慮に備えた。

「一、鉄砲は張者の江州の者総兵衛、堺の者松右衛門と申す者、彼ら両人が大工にて鉄砲を張り申した。
   鍛冶は10人ばかりいて鍛冶町と申す所に罷りあったが、彼らも年々、10匁筒、15匁筒、
   20匁筒、30匁筒と御用次第に張り立て申した。
   右の両人は知行2百石ずつ下された。残りの者どもは御扶持ばかりで、役鉄砲の他は何挺張り
   申しても、作料米を下された。
   また金具は白金や御免町という所にあったが、受け取ってそれぞれに御作事次第であった。

一、鉄砲の玉薬ならびに塩硝は白河・岩城・相馬より年々に買い集められた。鉛は越国筋方々より買い調え、
  また当国でも掘っては買い置きなされた。

  さて薬は慶長9の頃より夏夕の嫌いなく御足軽20人で、からうす(唐臼)で踏ませられた。
  奉行は鳥山修理と申す仁である。夏の土用には薬を踏みきり拵えた。
  すなわち三の丸に薬蔵3間張りで20間に作らせ、薬をは大こかいくつ共なくゆわせ入れ、
  しかと詰め入れ置き申した。実にこれまでの20余年々合わせ申した。

一、武具・馬具・鉄砲・弓矢、万事諸道具の細工人は20人ばかりで、慶長9年頃より年々細工仕った。
  右の細工人衆へも二人扶持、三人扶持ずつに切米を下された。毎日罷り出て御細工仕った。
  この奉行は高橋清左衛門と申す仁である。これも二の丸に細工所としてあった」

  と、当時の武器製造の事が『景勝卿記』に記載せられてある。

  ――『直江兼続伝景勝卿記)』

390 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/08(日) 18:06:52.08 ID:A90kfpZO
鉄砲鍛冶工場を置いた関村高湯とは、現在の米沢市白布温泉(白布高湯)のこと。
市街地から南へ登った山上の関町集落から、車で更に20分の山奥にあり、さすがに大坂の陣終了後は撤収した模様。

この関町(立石)は伊達時代に支倉常長が誕生した地でもあります。


白布温泉
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B8%83%E6%B8%A9%E6%B3%89



392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 07:32:55.42 ID:0Q6lNaf4
>>389-390
https://i.imgur.com/5I2CHNi.jpg
https://i.imgur.com/syATkuG.jpg
syATkuG.jpg

5I2CHNi.jpg

パチ○コで恐縮だが、花の慶次の○チンコで直江兼続が直江大大筒と言う超兵器使ってるんだけど、それを思い出して馬鹿げたことだと調べたら、当然そんな大砲は当時無いけど、>>389にも書かれてる通り、米沢藩の銃は10〜30匁で大坂の陣では上杉の雷筒と呼ばれて他家に恐れられる程の代物だったんだね…

https://www.miyasakakoukokan.com/hinawaju.html

https://i.imgur.com/SyU2huK.jpg
https://i.imgur.com/rItTWUI.jpg
SyU2huK.jpg

rItTWUI.jpg

確かに他所の銃と比べたら太いわ…

http://www.日本の武器兵器.jp/legacy/hinawajyu3/page/020.html

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:07:04.50 ID:zqhEdkjg
上杉家の大口径火縄銃は戊辰戦争でも使用され、家屋の壁の破壊などでも活用された話があります

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:24:18.45 ID:zqhEdkjg
館山城 (出羽国)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD)
米沢市の館山城は会津への街道入り口にあり、近年の発掘調査で国指定史跡となりました
伊達時代の城そのままを確認するつもりの調査が、実は上杉家が建設し破棄したものとわかった経緯があって
本城である米沢城は東日本系の土塁なのに、西の技術の石垣が構築されていたりします
それで直江の書状の一部で理由がわからなかった「例の城の始末よろしく」の文面が理解できたということだそうです

関ヶ原後、元和までの各家はそういう準備を怠らなかったし、終わったら終わったで何食わぬ顔で始末してたわけですな

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:25:34.99 ID:wtwlFdzc
家屋の破壊より薩人マシーンの破壊に使えよと。
いかに後退のネジを外された奴らと言えど、20〜30匁の弾でぶち抜きゃ活動停止するだろうに…


と思ったけど戊辰戦争の頃じゃあ、洋製の新式銃にゃあ射程やら何やらの点で太刀打ち出来なかったのかね?

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:37:10.65 ID:zqhEdkjg
なお石垣については、上杉家の直前に西出身の蒲生家の領地になってますが
やはり上杉で間違いないという報告ですね

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 11:27:51.15 ID:W8r3Z/Qm
>>395
アームストロング砲と比較するとなあ。

398 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:35:25.44 ID:wtwlFdzc
>>397
やっぱ時代はコレだよね
https://i.imgur.com/0hOfmvK.jpg
0hOfmvK.jpg

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:37:04.41 ID:wtwlFdzc
>>397
ていうかアームストロングぶっぱしたら市街地ヤバない?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 21:10:10.55 ID:W8r3Z/Qm
>>399
当時炸裂弾(たしか)じゃないから。上野戦争はアームストロング砲で薩長が勝ったなんて言われてる。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    投稿者さんにイチャモン付ける形になって心苦しいが、各文頭にスペース2文字から3文字分つ入ってたり変なところで改行されてるのは読み辛くて仕方ない…

  2. 名無しの住民 | URL | -

    鉄砲を張るという表現が新鮮に映る。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    管理人さんにケチつけるみたいで言いたくないが、PC版なら問題ないからスマホ版の問題かな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    窶サ3
    縺??繧?縲1C陦ィ遉コ縺ァ隕九※繧ゅ?∵怙蛻?譁?ュ励?遨コ逋ス縺ァ縺翫°縺励↑菴咲スョ縺ァ謾ケ陦後&繧後※繧九s縺吶¢縺ゥ窶ヲ


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  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!

  6. 人間七七四年 | URL | -

    しゃあっ 文字化け!

    PCサイトから見ても本スレ見ても変な改行と冒頭数文字空白なんだ。
    投稿者さんのコピペが原因だと思われる。

    文字化けの原因は知らん。

  7. まとめ管理人 | URL | -

    改行などを直してみましたが、いかがでしょうか?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    武の奨励はいいとして、関ヶ原終わって間もない今やることだろうか?
    減封で大打撃の最中だろうし、徳川にまたぞろ目をつけられて……
    それとも、関ヶ原直後はまだまだひと波乱ありそうだと思う風潮でもあったのだろうか

  9. 人間七七四年 | URL | -

    完全に武装解除するなら詫言容れずに改易すればよかった話だし
    関ケ原の戦後処理の時点で再武装は既定路線だったんじゃないか?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    管理人さんありがとうございます。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    関が原以降に火縄銃の大口径化が進んだので
    古い小口径火縄銃を廃止して新しいのに取り替える動きがあった
    と聞いたことがあるのだが、大口径化の理由がなんだったのか
    想定する戦闘が城の攻防戦中心になったからかどうかを覚えていない。

    たしか上杉のこの記事もその資料にされていたような

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    兼続がこの逸話で量産を進めた10〜30匁口径の鉄砲は他家が各地で作ったものと比べて口径がかなり大きく(他国量産型は大体6匁)、大坂の陣ではその轟音から上杉の雷筒と呼ばれて参陣した、他家にも恐れられたとか。
    殺傷・破壊力は勿論ながらその音による撹乱や士気低下効果も考えての大径化ではないかと。

    ちょっと違うけど、大坂冬の陣では淀の方もカルバリン砲かセーカー砲による被害と騒音に参って講和したと言うし。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    殺傷能力自体は6匁玉で十分だし、口径を増やして兵数の低下を補おうとでもしたのかねぇ

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※11 ※12 ※13

    前田も大阪の陣のときに20~50匁の大筒を用意したというのをどこかで読んだ。
    主に城攻め用じゃないかな。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    因みにこの三十匁砲は幕末の奥羽戦争の時にも装備としても兵制としても旧態化していたけど、使えたらしい。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    対人用兵器としては明らかにオーバーキルだから、やっぱり障害物狙いの対物兵器だよな。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    以前どこかで読んだ話だと
    関が原で負けて石高減少、動員できる兵力も減少
    兵力は減少するが戦力は減少させたくない。
    鉄砲を強力にすれば減少した兵力でも火力は維持できるので戦力減少しない。
    という流れで、新たに大口径化した鉄砲を製造・配備した。
    結果として補給や部隊運用がしやすくなり、大坂夏の陣でも活躍できた
    という結論だったような。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※17
    鎧武者でも十匁もあれば殺傷できるから、三十匁ともなれば
    手盾や竹束ごと攻撃できる能力が必要だったんだな、多分。

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