fc2ブログ

有田の夜泣き石

2021年08月09日 16:00

霞姫   
907 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:05:46.04 ID:0Q6lNaf4
有田の夜泣き石

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は紀州征伐を開始。上方勢はあっという間に根来寺・粉河寺・雑賀荘を制圧し、続いて紀南の攻略に乗り出した。

秀吉の弟、羽柴秀長が率いる軍は紀伊の守護格である畠山政尚・貞政父子の本拠地、有田郡に攻め入ると箕島にてその動きを止めた。

秀長は畠山麾下の宮崎定秋(またはその長子定之)とその一族が籠る宮崎城には定秋の末娘で霞姫と言う美しい姫がいる事を聞き及び、その姫を差し出すことで城攻めを止めると使者を送って来た。

しかし霞姫はこの時、宮崎城に身を寄せていた殿本帯刀輝綱と言う若者と相思の仲であり、定秋もその仲を認めていた。姫を差し出し和議を結ぶか否か、一族は揉めた。

そんな中、我が娘の幸せを願う霞姫の母、湊御前は自らの近習を付け、霞姫と輝綱を密かに城から逃したのである。

908 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:07:04.69 ID:0Q6lNaf4
これを知って激怒した秀長は攻撃を開始し、宮崎一族も明神峯に打って出て迎え撃つも大軍の前になす術なく宮崎一族は敗北。
宮崎定之は大崎港へ逃れ、そこから船で毛利家を頼って落ち延びたものの、城は灰燼と帰した。

城から姿を消した霞姫と殿本帯刀、近習の行方はようとして分からなかったが宮崎城の落城から一年後、かつて城のあった場所の対岸にある大きな石に乳飲み子を抱いた女性が現れると、乳飲み子を岩の上に残して身投げしたと言う。

哀れに思った付近の人々が乳飲み子を拾い、ある人物がその子を育てることにしたが、その子の顔は誰言うともなく霞姫に似ていると口にしたと言う。また、その子が夜泣きするたびにこの岩に連れて来ると不思議と泣き止んだとも言われ、この岩は霞姫の夜泣き石と言われる様になった。

「有田市誌」「宮崎落城記」より

参考サイト
生石高原の麓から
https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/05/30/211858
日本伝承大鑑
https://japanmystery.com/wakayama/aritayonaki.html
紀州 民話の旅
http://www.nnc.or.jp/~makoto-s/minwa/4001.htm

余談
上記参考サイト「生石高原の麓から」によると有田市誌では、羽柴秀長は紀州征伐の数年前から霞姫を狙って石田三成を通じて霞姫を側室に迎えることを所望しており、霞姫が城から出されたのは上方勢が攻め寄せる一年から二年ほど前のことであるとされ、その後に宮崎定秋と湊御前は亡くなり宮崎定之に代替わりし、紀州征伐が起こり宮崎城は秀長に滅ぼされたとされている。
今回は上記参考サイトに習い、羽柴秀長は有田来襲時に霞姫の存在を知った方向に話を寄せています。
また、有田の夜泣き石にはもう一つ由来の話があるけど、そちらは戦国期の話ではないため割愛します。



スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    羽柴秀長って奴は結構鬼畜だな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大和大納言を愚弄するかぁっ!

  3. 人間七七四年 | URL | -

    秀長「一方的にお前(宮崎)は滅ぼされるんだ。悔しいだろうが仕方がないんだ。」

  4. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉「許せなかった…!秀頼の本当の父親が○○だなんて…!」

  5. 人間七七四年 | URL | -

    紀州国人衆に哀しい過去

  6. 人間七七四年 | URL | -

    むしろ城攻め直前に逃げ出した二人のほうが酷くないか

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/13111-cb4f3304
この記事へのトラックバック