fc2ブログ

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    メジャー所は既出の話の再掲ばかりになってしまいましたなぁ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    そりゃ仕方ない
    有限なんだから
    長持ちした方よ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    出典違いはセフセフ

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/13135-adbc20bb
この記事へのトラックバック