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今治城の石集め

2021年09月01日 15:14

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/31(火) 23:04:19.68 ID:f6XXyc02
今治城の石集め

関ヶ原の合戦の戦功で宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、自身は今治へ居を移すと
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、現地の武士である木山六之丞を普請奉行
として今治城の築城を開始した。

この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めとその搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。

「石を持ってくれば米と交換する」

こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んであちこちから築城現場へと
持ち込んだ。高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと

「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」

こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。

さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班はさっそく捨てられた石を城づくりに活用し、彼らの努力と
石を運んできた船頭たちの献身もあって今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。

さて、この逸話であるが福島正則が慶長7年(1603)年から築城を開始した海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)
にも全く同じ逸話がある。
自分が3年ほど前に投稿したので藤堂高虎にも全く同じ逸話があったので驚いたのだが、隣国の大名で徳川寄りでもあるし、
ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11124.html
大竹市歴史研究会(亀居城)
http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話96)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?


    この2人仲悪かったみたいだから流石にそれはないかな?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    つまりこういうことか

    高虎「パクリじゃ~!彼奴がワシのアイディアパクリよったんじゃ~!(怒)

    正則「(チッ)…ンなモン、誰だって思いつくだルォォー!?パクリじゃネーヨパクリじゃよぉ!?」



  3. 人間七七四年 | URL | -

    2人ともこういう1回こっきりしか使えない策を「名案」として出してくるほど間抜けじゃないだろう
    これをやっちまうことで国家(藩)の信用がどれだけ毀損されることか

  4. 人間七七四年 | URL | -

    福島正則に関しては広島市中心部の治水で祭りの開催費を持つ代わりに町衆の参加費用は堤防造成用の石。

    と、造成中の堤の上で踊り大会開催。

    なんて言う施策を行ったり、堤防の難工事の際に誰かが言い出した人柱は止めさせて、自らの刀剣八本を代用にしたと伝わってたり、この築城の逸話だけだとケチな感じだけど割と上手く民衆の心を掴めそうな政策も行なってるんだよね。

    新城作りは金だけでなく藩の威信もかかってるから強引にやるのは止むなしな面も有ると思わなくもない。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    この高虎さんのエピソードは、『家康、江戸を建てる』の中でも使われてたな
    ある章の中心人物の石工がそれを聞いて藤堂高虎に反感を抱いていた時、江戸城に使うための石を運ぶ現場に遭遇
    そこで高虎が家康から(工事の進捗について)叱責される場面が、その石工と家康が邂逅する導入に使われるという流れだったと思う

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