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千代の笠の緒文

2021年09月10日 20:00

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 22:04:20.53 ID:xIoK6K1r
千代の笠の緒文

恐らくまだ出ていないと思われるので投下。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前のこと。会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康であるが、
のちに関が原で家康と激突する石田三成は家康に付き従った諸大名の妻子を人質として家康らをけん制しようとしていた。

上方ではその様な状況の中、山内一豊の妻・千代こと見性院の元に増田長盛と長束正家の連署で一通の書状が届いていた。

千代の夫である山内一豊に石田三成の西軍へ与力するよう促す内容の書状であった。

使者の言葉通り、夫・一豊にこの書状を届けることにした千代であったが千代はそれとは別に2通の書状をしたため、
一通は未開封の増田と長束の書状と共に文箱に入れ、もう一通は観世よりにして夫への使者である田中孫作の笠の緒により込んだ。

孫作は下野に陣を張る一豊の陣へ向けて書状の入った文箱を持って旅立ったが道中で追い剥ぎに遭い文箱と笠は守ったものの、
自身の大小と衣服を追い剥ぎに奪われてしまった。

孫作は他者から衣服と刀(銘兼元という)を奪って旅を続け、美濃路では鮨屋の床下で二昼夜を過ごしてすし桶を盗んで飢えをしのいで
何とか下野諸川(現在の茨城県古河市)の一豊の陣までたどり着いた。慶長5年(1600年)7月24日のことであるという。

文を受け取った一豊はまず孫作の笠の緒に練りこまれた千代からの文を読んだ後、それを近侍の野々村迅政に焼かせたのちに文箱の封を解かずに
家康に届けさせた。

家康は大坂の状況を知り得たことと同封された千代からの書状に一豊が家康に忠を尽くすよう書かれていたことを読んで感動したという。

ここからは推測であるが、一豊が読んだのちに燃やした孫作の笠に織り込まれた千代からの文には文箱を未開封のまま家康に差し出すよう記してあったのではないかという。

西軍方と千代からの手紙を未開封で家康に差し出し、全ての判断を家康にゆだねたその行動こそが一豊の家康に対する二心の無さの裏付けともなり、翌日の小山評定での掛川城の供出など
戦後の山内家の加増へと繋がった一連の流れへとつながっているとも考えられているという。

この時、千代からの使者となった田中孫作がその旅路で奪った衣類についていた紋は田中家の定紋となり、この時のことを孫作は名誉とみなしていたという。
孫作の墓所は一豊夫妻と同じ妙心寺大通院にある。

参考①:国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

参考②:Wikipedia 笠の緒文
https://ja.wikipedia.org/wiki/笠の緒文

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 06:59:49.32 ID:foSPLbJU
どこで読んだか忘れたが山内さんが妻を心配し過ぎて3回くらい大阪に家臣派遣した話好き

しかし西軍の関所どうなってるんだ
上のと合わせて山内家だけで4回突破されるなんて




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 07:26:12.43 ID:a/jaiCIJ
>>508
この話の場合は西軍側の書状を渡す使命だからその使者と言うことで問題なく通されそうだけど

510 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 14:01:10.46 ID:Bdmlm/6/
>>507
田中孫作は紛れもない勇士だと思うけど追い剥ぎに遭った時、笠と文箱は守ったけど新たな服と刀を奪うまではこんなだったのかな?
https://i.imgur.com/yv65uRz.png

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 18:37:08.81 ID:vUaP+85t
?「戦場でも編み笠一つあればいい」

512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:16:00.90 ID:8/hcsJ2h
>>508
>>507の下に貼ってあるかゞみ草の13ページかりそれっぽい逸話が有る。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

市川山城と言う老臣を派遣したけど、西軍側の関所抜けるのに熱田の禰宜に化けて抜けようとしたら顔見知りがいてバレそうになったと言う。

実はバレてたけど、市川の必死の演技に顔見知りは人違いと偽って通してあげたみたいに書いてある。

513 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:23:41.61 ID:8/hcsJ2h
>>512追記
義経と弁慶の安宅の関の話のオマージュみたい
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    一豊はなぜ千代ちゃんの操り人形としてしかいい話が出てこないのか
    相撲大会と偽って一領具足を殲滅した時はあんなに生き生きしていたのに

  2. 人間七七四年 | URL | -

    石田三成「ち、チヨちゃん東軍につかないで…」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    千代「うるさいですね…」

  4. 人間七七四年 | URL | -

    関ヶ原の時代なのにいきなり鮨屋が出てくる
    まだ、混ぜ寿司か鮒寿司ならワンチャン思ったら寿司桶でアウト
    どう見ても江戸も末期近い頃の創作じゃないですか
    鮨屋に限らず時代劇で想像出来るような食堂って、何時ぐらいに一般的になったのかな?

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    確かにかがみ草をまとめた長屋重名は明治の人だし、この話に論評を下した頼山陽も江戸末期の人で、あくまで逸話として正誤や考証は別にとも思ったけど、
    なれ鮨や鮎寿司の類は平安の頃から存在して、平安期の今昔物語にも鮨売りの女の話があって、売り物の鮨桶に酔っ払ってゲロ吐いちゃって慌てて混ぜて売ったなんて話があるみたいだけど、この話の鮨屋と鮨桶もそっちの鮨と考えれば矛盾はしていないのでは?

  6. 人間七七四年 | URL | -

    関係ないけど、時代劇の考証って難しくて江戸200年の歴史のどこを切り取るか、
    上方と江戸のどちらを中心に描くかで習俗が全然違うんだってね
    我々が見ている時代劇はそれらをツギハギした「時代劇時代」だって話だ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    そもそもここ(というか元スレ)自体史実的な正しさではなく色んな逸話を集めましょう、というコンセプトなので創作だからアウトというものではないですね。
    まあそれはそれとしてあれこれ考証するのは楽しいものではありますけどね。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    落語でも舞台は江戸時代の日本のようでいて、
    あくまでも落語国の住人って噺家さん自身で言ってたりもしますね

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    「江戸しぐさ」とかいう鬼子もそんな混沌の中で生まれたんですかねー。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    調べてみて鬼子振りにドン引きしたんですが…
    古き良き時代なんてのはいつの世にも存在しないという世知辛さ

  11. 人間七七四年 | URL | -

    むしろ鮨桶って聞いて握り寿司しか思い浮かばない※4みたいな人が
    ただの無知なのでは

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    またそういう荒れること言う

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