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雨森九太夫最期の戦い

2021年09月24日 16:58

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 23:15:50.72 ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙石但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意

続き
仙石久勝最後の戦い


64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 23:54:43.72 ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 10:10:52.54 ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 12:53:12.46 ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    九州外からあえて水野勝成を抜擢するくらいだから家光も幕閣も討伐軍の経験不足は承知の上だったろう
    各大名家にもとりわけ老巧の士を選抜するように内意があったのかもしれない

    まあ本当にあったとしたら光栄の極みとして記録してないはずはないから妄想に近いけどね
    多少の忖度はあったかも知れないが

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    ん〜、柳生宗矩や徳川頼宣、真田のお兄ちゃんは一揆舐めすぎワロタ(意訳)

    って会議で発言したって話もあるけどね。

    頼宣、お兄ちゃんと同席したのが尾張義直で義直は一揆をクソ舐めきった発言して〜ってのが言行録ベースの紀州徳川の記録だからウソクセー、なーんかウソクセー感バリバリだけど。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    そもそもなぜ、小録で軍勢を率いる経験が不足している板倉が抜擢されたのでしょう?
    少なくても普代家臣達を探せば経験者や、もっと大録の人が居たでしょうに

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    想像に過ぎんが、父・兄・息子が京都所司代を務めた家柄だから家光の側近中最も西国通とみなされたのでは。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html

    この話を見たら何か家光の判断ミスで貧乏くじ引かされた様にしか思えない。

    将軍の御下命とあらば幕閣には断ることも出来ないし。

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