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後醍院宗重の「本藩人物伝」における記述

2021年09月24日 17:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 20:36:13.75 ID:Sox3FW2z
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
上の「1600年、伊賀山中にて」の逸話で
関ヶ原での退き口の後、薩摩武士として死など厭わないところを見せた後醍院宗重の「本藩人物誌」における記述

後醍院淡路守源宗重入道淡斎
後醍醐天皇第六皇子良懐親王(ママ)八代の後胤である。
親王と妾(菊池武光の妹)との間に生まれた後醍院越後守良宗の子孫で代々肥後に居住していた。
天正の初めは相良義陽に随身し、たびたび戦功(特に佐敷量石での勝利に貢献)があった。
そのため相良氏と同姓の高橋姓をもらい受けたが再び後醍院に戻し、島津忠平(義弘)公の八代城滞在のおり島津の配下になった。
龍造寺隆信との戦の際、島原で弟が戦死。
その後、岩屋城攻めでも活躍。義珍(義弘)公が豊後を引き上げるときには殿軍となった。
太閤秀吉の西征時、長束正家から薩摩の案内をするように言われたが主従関係を縦に断ったところ、
佐々成政預かりとなり母子を人質として差し出した。
成政の悪政のため肥後で国人一揆が発生し、宗重も鎮圧にたびたび手柄を挙げたが成政が切腹したため
清正とともに肥後入りした小西行長の配下となり、文禄の役では平壌城から二里ばかり離れた牡丹台を守備した。
李如松の大軍に行長が敗れた際には森勝介とともに殿軍として戦い(森勝介は戦死)、
忠恒公が唐島に着陣した際、行長に暇を乞い忠恒公に従い、帰国後、正式に島津家に戻った。
惟新(義弘)公にたびたび加増され五百石取りとなり、庄内の陣にもお供した。
上方騒乱の際には惟新公に付き従い、美濃国須俣に着陣。
関ヶ原合戦の際には木脇刑部左衛門祐秀とともに殿をつとめ、
義弘公が戦死しようと決心した時には諫言申し上げ、首尾よく御帰国までお供した。
この功により五十石が加増され、寛永元年甲子四月六日七十四歳で卒した。
常盤村大坪久田村に葬る。

こちらだと上の逸話と逆っぽい話に。
それにしても「懐良親王」を「良懐親王」にしてるのは明史の影響とかだろうか



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    (義弘)

    の回数に驚いた

  2. 人間七七四年 | URL | -

    こう言っちゃ何だが「義珍」で定着しないで本当によかった

  3. 人間七七四年 | URL | -

    米2
    立花宗茂の『鎮虎』もだね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    城井鎮房「…」

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