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讃州十河城落去記

2021年09月26日 16:19

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/26(日) 16:01:29.54 ID:diCd1wL4
讃州十河城落去記

天正11年(1583)5月、元親(長宗我部元親)は東方利運となって平木城に到り、
十河城を攻めるべしと大兵を向かわせた。すると、城守の三好隼人佐(十河存之)より
阿州岩倉城主の長宗我部掃部助方(比江山親興)へ伝をもって頼んで来た。

「この城の運、今時に到りぬ。道口を開けて給わらば城を明け渡し申すべし」との通達
で、掃部助より元親に達す。元親は曰く「この城は阿讃両州の悪党どもが寄り集まって、
境目で狼藉をなし盗賊をなした。この時に悪人の根を絶たねば、何の時を期すべきぞや。
救うべからず」と仰せになった。

隼人佐の重ねての申しようは「私は三好の末に生まれて盗賊の名を得るべき者にあらず。
去年より附城を構えられ、海陸の通路を絶たれ、領内の秋毛も3年の間費耗されて衆兵
は餓死に及んだ。故に糧食を奪って身命を続けたのだ。

武士は勝って盛るも運、負けて衰えるも運である。元親は弓矢を取って達人なのだから、
これの程を観察なさるべきではないか。ただし死を賜るといっても、私は逃れるべき身
にあらず」と申し述べられた。元親も哀れに思われ、屋島の浦へ送り遣わされた。

四国は元親の領国となり立ち寄る陰もなければ、隼人佐はまず備前を目指して渡られた。
事窮まる時は死を恐れぬ習いなれば、千余人は1人も離れずに付き従い、屋島の奥庵治
浦まで退いた。

さてまた、十河城へは長宗我部右兵衛尉親吉を城主として、組与力多兵を付けられ入城
した。中讃州綾部鷲ノ山の城主、新名内膳を殺害してその城を入交孫右衛門に遣わし入
城した。この新名に罪は無く、城を取らんがためと聞く。入交は当国の目付である。

それより元親、香西氏が城に来たり「中讃岐にして手次よき城である」として2万人の
内の足軽人夫をかけて西の方に二重堀を掘らせて堅固に取り固めさせ、仕置あって西長
尾城に到り、国中の兵将はこれより在宅の暇を賜って各々自分の居城へ引き退き、初め
て軍労の心を緩めた。

――『南海通記



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