624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 22:41:21.23 ID:4mwlR5+s
仙石久勝最後の戦い
悪い話スレ>>63の続き
寛永15年元旦(1638年2月14日)、板倉重昌による原城への総攻撃は失敗に終わり総大将・板倉重昌は討死、
総攻撃に参加した諸藩の兵も4千に達する死傷者を出した。
土佐藩・山内忠義から派遣された使者の雨森九太夫をはじめとする手勢も多くの損害を出し、使者代表の雨森九太夫自身も一揆勢の銃弾で重傷を負ったため、
翌1月2日に着陣した仙石但馬久勝と土佐藩使者代表の役割を交代し、本国土佐へ帰還することになった。
ここで仙石久勝の素性を紹介したい。彼の弟はかつて三国一の臆病者と謳われた仙石権兵衛秀久である。福島正則に仕えて広島藩・三原城番を務めた
人物でもある。福島家が改易となった後は広島城受け取りの役を果たした土佐藩主・山内忠義に招かれ土佐藩の中老となっていた。
この度の土佐藩使者として、子息3名(嫡子・左近、二男・勘兵衛、三男・八左衛門)と忠義の馬周り・毛利久八と5名の飛脚に多数の兵を連れ島原へ赴いていた。
さて、久勝は同時期に島原へ着陣した正使の幕府老中・松平信綱、副使・戸田氏鉄に面会するとこう申し出たという。
仙石久勝「我ら土佐藩兵に一所攻め口を与えていただきたい。」
先の総攻めに参加した雨森九太夫同様、久勝も一揆勢への攻撃に加わるつもりである。
これを聞いた松平信綱と戸田氏鉄
( ゚Д゚) ( ゚Д゚)
( ゚Д゚) ( ゚Д゚ ) (ゴニョゴニョ)
(; ゚Д゚) (; ゚Д゚) 「「却下」」
(中略)諸国之使者え責口は不被下候間左様ニ相心得候得 「山内家資料」
表向きは各国からの使者には攻め口を与えないということで松平信綱と戸田氏鉄に却下された。
とはいうものの、
仰渡尤但馬儀福島以来場数名誉之者ニ候間軍之差引御談合可被成ニ付老躰旁座上自由ニ仕候得と被仰付御本陣近被差置候
攻め口を与えること自体は断ったものの、松平信綱は福島家以来の軍のやり取りに秀でた者として、久勝を信綱の戦の相談役にして
山内家と久勝の面子を立てたのである。
こののち、久勝の嫡子3人と毛利久八は2月27日の最後の総攻撃に加わり、彼ら久勝の子息らについては
同月二十七日惣責之節は嫡子左近二男勘兵衛三男八左衛門毛利久八右孰も城中え乗入候由中ニも八左衛門儀一揆二三人槍にて
突倒し其身も冑をしたたかに打たれ候得共ためし鉢ニて強ハ痛不申名誉なる仕合といづれも申あひ候と申傳候
このように記録されている。
こうして、仙石久勝最後の戦いである島原の乱は終結した。
そして、久勝は島原の乱終結の翌寛永16年(1639年)3月8日に死去。享年88歳。
戦傷で亡くなった雨森九太夫とは異なり、彼の最後については詳細は記録されていないものの、
恐らくはこの時の良き思い出と共に安らかに亡くなったのではないかと個人的には思う。
戦国の世を駆け抜けて土佐藩に仕えたもう一人の武人の最後の戦いの記録である。
参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意
625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 23:08:50.66 ID:kR2UOwai
東郷隆のいくつかの小説で主人公として描かれてたっけ>仙石久勝
「決戦!関ヶ原2」収録の短編「戦さ神」だと高知市の愛宕神社が仙石久勝が山城国愛宕権現を勧請したものとかいう話があった
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コメント
人間七七四年 | URL | -
立花宗茂よりもお爺ちゃんなんだよなぁ
晩年ちょっと前の故小野田少尉が現れて戦争に参加するって言ってるようなものか?
( 2021年09月30日 20:53 )
人間七七四年 | URL | -
「センゴク兄弟」か。
弟より長生きやったんやな。
( 2021年10月03日 19:49 )
人間七七四年 | URL | -
※2
あの漫画の方、先に連鎖されて人気が出たセンゴクに絵柄寄せてるけど原作者がいるせいか、センゴク作者の宮下明はクレジットされてないのよね…
( 2021年10月03日 22:53 )
人間七七四年 | URL | -
おっと、センゴク作者は宮下英樹だ。間違えた。
( 2021年10月03日 22:53 )
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