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明日は一緒に討ち死にじゃ

2021年10月10日 17:39

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 00:23:46.01 ID:I/RT7GDO
島津義弘公が高麗在陣の砌、肥前の五島家より『兵糧が切れてしまったので貯穀をお貸し下されたい。』
との旨の申込みが来た。実はこの時、薩摩の陣中にも余分の貯穀は無く、僅かに三日間を支え得る
のみであった。そのため、家老衆をはじめ諸人皆、これを断るべきだとの旨を談合した。

しかし義弘公はこの事を聞いて頗る残念に思し召され、直ちに老臣を召されると、言葉厳かに言った

「偶々、武士が頼みに来たのに兵糧無しと返答するというのは、義理に外れている。
少しであっても遣わすように。明日は一緒に討ち死にじゃ。」

そのように仰せに成り、御家老衆も是非無く、貯米の半ばを割いて五島家へ送ることとした。
この時薩摩の陣中では

 五島若衆は浜千鳥
   みめはよけれど磯せせる

と、歌い囃したそうである。その後三日を経ない内に、本国より兵糧船が到来して皆々愁眉を開いた。

軍神島津義弘公



656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 09:40:58.99 ID:WUvroWhc
どの程度必要だったのかというとこだが、まとめ過去のこれだと、五島家の軍勢は実戦部隊160人、輸送下働きが300人ってとこか

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12691.html

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:19:07.78 ID:WUvroWhc
>>655-656
島津軍のあくまでも史料上の参戦当初の数値では総勢10800ね

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:21:05.45 ID:WUvroWhc
もちろん、自家よりはるかに小勢だから気前よく分けてやれよってお話でもありませんが

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 17:10:10.65 ID:QttkdCRV
まあ1万人の3日分で9万食分手持ちがあって、500人の同じ3日分で1500食分分けるなら
1.66%だから少し分けてやって恩を売っとくか、みんな少なめに食べとけとなるが

半分もやったんかーい

あれこの当時って1日2食だったりするか?

663 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/11(月) 20:48:03.95 ID:VItcYL67
>>662
江戸中期辺りから庶民が徐々に三食取るようになりだした。社会の安定化と米供給の安定・都市の肉体労働的職務の発達で自然と三食へ変化したらしい。
でも上流階級は基本三食取ってた訳でなく結構後まで三食というより二食と中間のオヤツ程度で、戦国時代なら上流低層問わず二食が普通で三食取る事自体無かった。
だからこの逸話の時期なら多分二食。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    略奪とか交換とか購入とかで現地調達できなかったのかな
    全補給を本国からの輸送で賄うなんてナポレオンでもできなかったんだから無理無理

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    略奪にしろ交換にしろ現地調達するものが無かったか、有ってもとても足りなかったじゃないかな。
    ナチュラルに焦土戦術されていたんじゃ厳しいよね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    …はっ!
    まさか小西行長が破竹の勢いで進軍できたのは略奪パーリィで食い物に困らなかったからなのでは?
    後続の清正公が到着した直後に見たものは飢民と焼け跡ばかりで物資はほとんどなく…。
    そら虎も怒るわ。

  4. 人間七七四年 | URL | b5.M5V.g

    ※3
    怒るも何も加藤清正は小西行長とは別ルートで快進撃を続け
    朝鮮半島を突き抜けて女真族の支配地域まで行ってるから
    小西隊はすぐに明の援軍に遭遇するので破竹とはいかなかった

  5. ※3 | URL | -

    ※4
    妄想妄想、御堪忍あれ。

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