669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に
老鼠死而猫憂
との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。
(軍神島津義弘公)
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね
673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?
674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね
675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは
680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし
681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ
682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで
ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ
684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う
685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか
戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう
686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう
687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな
688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか
689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。
690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に
老鼠死而猫憂
との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。
(軍神島津義弘公)
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね
673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?
674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね
675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは
680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし
681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ
682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで
ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ
684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う
685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか
戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう
686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう
687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな
688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか
689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。
690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
清正は野心というか拡大志向が強すぎんねん
関ケ原の時も小西行長とか立花宗茂の遺領狙いが露骨すぎて
( 2021年10月13日 18:24 )
人間七七四年 | URL | -
エピソードとか見るに優秀であるが故の鬱陶しさみたいなのあるんだろうなって思う
( 2021年10月13日 19:59 )
人間七七四年 | URL | -
※2
三成と清正って同族嫌悪みたいなところもある気がするのねん
( 2021年10月13日 20:08 )
人間七七四年 | URL | -
そういえば庄内の乱の時も水面下でモニョモニョ動いてたな清正
( 2021年10月13日 20:25 )
人間七七四年 | URL | -
※3
清正って世間のイメージと違って実像は意外にもバックヤードの事務屋さんだからね。
土建屋で事務作業が達者で人に仕事を任せる度量がなくて何でも自分が指示出ししないと気が済まない小心者。
結構卑怯で小狡いところもあるし、実際の清正ってあんまり見どころのある男じゃないのよね。
( 2021年10月13日 20:27 )
人間七七四年 | URL | -
老鼠
「歳を経たネズミ」ってことだろうけど
現代中国語ではただのネズミの意味になっちゃうな
( 2021年10月13日 22:14 )
人間七七四年 | URL | -
※4
大抵の隣国は仲が悪いものだし梅北一揆とかで遺恨もあるだろうから仕方ない
( 2021年10月13日 23:00 )
人間七七四年 | URL | -
>老鼠死而猫憂
ジェリーが死んでしまって家から追い出されるのを憂うトムの姿が浮かんだ
( 2021年10月14日 08:22 )
人間七七四年 | URL | -
あくまで藩翰譜内での記述だが、関ケ原の時に大和一国を条件に西軍に付く回答をしている
大和郡山の増田長盛が怒り話は流れたが、石田三成は最後まで清正参戦のために説得していた
清正の小西攻めは関ヶ原後の9/19から。当時の通信速度で結果を知ってからか は怪しいが東軍有利の情報(岐阜城陥落)を聞いてから動いたとしか思えない
そもそも軍を動かしたのも黒田如水に促されてからで、それまでは憎い小西領に全く手を付けていない
色々調査が進んで欲しいね
( 2021年10月14日 18:02 )
人間七七四年 | URL | -
※9
清正の動向は本多正信等宛9月11日付清正書状が分かりやすいですよ
それまで家康が清州に着くまで動くなと制止されてたので動かなかったが、前日に届いた書状(おそらくは清正宛8月12日付家康書状)を受けて如水と相談して隣国に攻め入りますと報告を上げてます。
( 2021年10月16日 20:02 )
人間七七四年 | URL | -
683
>近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね。
そもそも薩摩軍が熊本城への攻勢を行ったのって、実際には2月22日の1日くらいで、それ以降は包囲戦へと移行している。それでも22日の攻防戦では、政府軍は城防衛の要衝である段山を落とされて、歩兵第13連隊長が負傷(後、死亡)するなどの被害を受けている。
ただこの日には、歩兵第14連隊が植木にまで進出していることから、薩摩軍は城攻めを包囲戦に切り替えて、小倉への進撃を決定している。
西南戦争の彼我の軍勢の行軍を見てみると、政府軍の対応が滅茶苦茶早いんですわ。
( 2021年10月17日 19:45 )
人間七七四年 | URL | -
※11
西南戦争の頃って電信網が整備されつつあって情報伝達が桁違いに早いんだよね
そりゃ政府軍の動きも良くなります
( 2021年10月17日 20:05 )
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