696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 14:28:30.51 ID:MKa9KZNU
大内義隆逆亡の後、豊前筑前は大友義鎮(宗麟)が治めた。この時にあたって大明王
(嘉靖帝)より日本国王に璽書を贈って曰く、
「中華と日本は勘合によって古くから通じてきたが、近頃はその交友を失って来聘を
絶している。また毎年倭の賊船がしばしば来て、大明の辺境を侵している。切に望む
ことはその剽掠を禁止して衆民に安寧を得させることである。故に書をもってこれを
諭す。今や旧好に復して睦をなす時は、すなわち幸いのみ」
とのことであった。大明の使、鄭舜候という者は博多津に入り来る時に、豊後の大友
義鎮は西州を統領するため日本国王であるとしてその璽書を義鎮に奉り、またその意
を述べた。義鎮曰く、
「いわゆる日本国王はすでに王畿の君あるなり。私は西州の地を領してその藩屏を守
るのみであり、国王にあらず。しかしながら今や日本は戦国にして諸州の豪家は王命
を聴かない故、朝廷に達することができない。
そのうえまた自国は日々に兵備をなしてその領域を守り、ともに雌雄を争って他国へ
兵を出すことに暇がない。これはただ海島の群賊のなすことであろう。朝廷より制止
を加えるべき限りにあらず」
と諭すと、三使はこれを聞いて還った。
――『南海通記』
大内義隆逆亡の後、豊前筑前は大友義鎮(宗麟)が治めた。この時にあたって大明王
(嘉靖帝)より日本国王に璽書を贈って曰く、
「中華と日本は勘合によって古くから通じてきたが、近頃はその交友を失って来聘を
絶している。また毎年倭の賊船がしばしば来て、大明の辺境を侵している。切に望む
ことはその剽掠を禁止して衆民に安寧を得させることである。故に書をもってこれを
諭す。今や旧好に復して睦をなす時は、すなわち幸いのみ」
とのことであった。大明の使、鄭舜候という者は博多津に入り来る時に、豊後の大友
義鎮は西州を統領するため日本国王であるとしてその璽書を義鎮に奉り、またその意
を述べた。義鎮曰く、
「いわゆる日本国王はすでに王畿の君あるなり。私は西州の地を領してその藩屏を守
るのみであり、国王にあらず。しかしながら今や日本は戦国にして諸州の豪家は王命
を聴かない故、朝廷に達することができない。
そのうえまた自国は日々に兵備をなしてその領域を守り、ともに雌雄を争って他国へ
兵を出すことに暇がない。これはただ海島の群賊のなすことであろう。朝廷より制止
を加えるべき限りにあらず」
と諭すと、三使はこれを聞いて還った。
――『南海通記』
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
鄭舜候ってのちに日本事情書『日本一鑑』を作った鄭舜功のことか。
( 2021年10月17日 19:06 )
人間七七四年 | URL | -
鄭舜候ってのちに日本事情書『日本一鑑』を作った鄭舜功のことか。
( 2021年10月17日 19:32 )
人間七七四年 | URL | -
何事もなかったように書かれてるけど鄭舜功さん宗麟に軟禁されてんのね
( 2021年10月17日 19:41 )
人間七七四年 | URL | -
この頃の倭寇は殆ど地元(中国)産だと聞いたが
( 2021年10月18日 06:59 )
人間七七四年 | URL | -
平戸に根拠地(あるいは単に妾の居所)を置いた海賊稼業もしていた鄭芝龍(後の国姓爺鄭成功の父)が
明末清初(江戸時代初期)にいたわけで、それ以前のまだ形を成していた明末の政権が
東シナ海の両岸で協力して海賊を武力制圧したいと思うのもおかしくはないと思う
( 2021年10月19日 16:18 )
コメントの投稿