fc2ブログ

新納忠元は全身から汗を流し悔しがり

2021年11月01日 17:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:51:32.43 ID:eGR1iS90
江戸後期に成立したと思われる、戦国時代-江戸初期の薩摩の君臣の話を随筆風に記した「薩州旧伝記」もしくは「薩摩旧伝集」から

文武両道の薩摩の名将・新納忠元がまだ若い頃、「太平記」を読んでいたところ、
新納氏の家祖である島津四郎時久(島津氏の第四代・島津忠宗の四男)の名前が出てきた。

以下、岩波文庫「太平記(西源院本が底本)」より該当箇所(文庫では古文だが現代語に翻訳)
「島津四郎は大力として知られ、まことに能力と風采に優れていたため、鎌倉幕府の一大事には頼りになるだろうとして
長崎円喜(鎌倉幕府末期に幕政を牛耳っていた)が烏帽子親となり、一騎当千の武者だと期待されていたため、
鎌倉の入り口の戦場(化粧坂の戦いなど)ではあえて相模入道(北条高時)の側に待機していた。
源氏(新田義貞軍)がすでに鎌倉に押し入ったため、相模入道は島津四郎を呼び、自ら酌をとって酒を勧め、三杯さかずきを傾けた後
厩で飼っていた坂東一の無双の名馬を、銀で縁取りした鞍を置いて引かせてきた。
これを見た人々はみな島津四郎を羨んだ。
島津四郎はこの馬に乗り、由比ヶ浜の浦風に大きな旗印をはためかせて堂々と敵軍に向かった。
数万の軍勢も「ああまことに一騎当千の武者だ。長崎入道(円喜)が重く恩を与え、傍若無人に振る舞わせたのも道理である」と皆感心した。
新田軍の兵もこれを見て「よい敵に会った」と思ったため
若武者どもは我先に、闘おうと馬を進めて近づいていった。
両軍の高名な大力の武者が一騎討ちで勝負を決しようとしていたため、敵味方の軍兵は固唾を呑んで見守っていると、

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:57:49.26 ID:eGR1iS90
新田軍の近くにきた島津は馬から降り、兜を脱いで降伏し、新田軍に加わった。
これを見た全ての者は島津をけなし、ほかの北条から恩を受けた者どもも次々と降伏していった。」

これを読んだ新納忠元は全身から汗を流し悔しがり、それ以来武道を学ぶようになったという。
なお肥後国の住人曽我四郎という説もあると高野山の毛利本には見られるという。
太平記が編纂された頃には諸国の人々が書き足したため、あることないこと記された家もあるそうだ。
(なお岩波文庫「太平記」によれば、玄玖本、簗田本では「島津四郎」ではなく「曽我奥太郎時久」となっているという)



スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    この記述で発奮したおかげでために親指武蔵が誕生したからいい話だが、当のデ新納からしたらちょっとどころじゃなく悪い話だな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    某『逃げ上手の若君』動画で出てきてたな
    まさか新納氏初代だったとは…
    まぁこの後、無事南北朝時代を生き抜いて子孫を残したのだから、武家としては正しい行動だったのかな?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    北条を離れて倒幕側に与したのは島津本家の判断なんだから新納さんもそこまで悔しがらなくても…

  4. 人間七七四年 | URL | -

    事実関係がどうであれ、諸国の人々が読む太平記に「新納氏初代はひどい裏切り者だぞ」
    と印象に残るような書き方されたんじゃそりゃへこむ
    蜂須賀茂韶侯爵が明治天皇から「煙草を失敬するとはさすが小六の子孫じゃの」
    と太閤記の蜂須賀小六=盗賊ネタを言われて悔しがったみたいな

  5. 人間七七四年 | URL | -

    太平記の影響力と言えば…

    近所に『小山田健雄(高家)君殉難の碑』という石碑が残っていますが、戦国時代某家滅亡時にだいぶ不評を買った一族の子孫が明治以降太平記が再評価された頃にさらにさかのぼる南朝方の先祖を顕彰したものだそうです。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/13245-3d7a2215
この記事へのトラックバック