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大阪周辺の治安が悪すぎる

2021年11月07日 16:13


153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 15:15:45.44 ID:AjZrlMYF
去る慶長十七年の春、豊臣秀頼公の詰衆である津田出雲守、渡辺内蔵助(糺:此の頃は権兵衛と称すると)、
及び児小姓十人ばかりが、野田の藤の花を見に行った。終日酒宴沈酔して、或いは二、三人、或いは
四、五人づつ船を浮かべ、福島、海老江などに赴き逍遥した。
そのような中、林斎という盲人と出雲守が藤の辺りを遊観していた所に、薩摩のあぶれ者共六人、
刀の鐺(こじり:刀の鞘の末端)に小さな車を付けていたが、この辺りを徘徊していて出雲守と口論に及び、
この六人の者共は刀を抜いて切って懸かってきた、これに出雲守は十文字の鑓を取って野田の辺りまで
押し出したが、悪党たちもここで取って返しまた切懸った事で、出雲守は九ヶ所まで疵を被った。

林斎は盲人であったのでこれと戦うことは出来なかったが、浜辺に積み置いてあった割木を取って
隙間もなく悪党どもに投げ懸けた故に、悪党たちも少しく辟易して攻めあぐんでいた所に、渡辺内蔵助が
馳せ来て薙刀を以て敵三人に傷を負わせた。また出雲守の従者たちはこの時、野田近辺の在家に居たのだが、
これを聞きつるとようやくに走り来て、主の出雲守を助け出し帰宿したが、その疵が平癒せず終に死去した。

同十八年の春、大阪城内の秀頼公の寝殿と蘇鉄の間の中間、柳の間に於いて、田屋式部という者、予てより
詰合衆饗庭備後守に宿意あって殺害した。これによって営中大いに騒動して、検議の上式部には
切腹が仰せ付けられた、

またその後、渡辺内蔵助は私用あって天王寺辺りまで行った所に、その頃名に聞こえた関東の荊組という
あぶれ者の集団がここに徘徊しており、渡辺と闘争に及んだ。渡辺は奮撃して悪党どもを追い払うことは
追い払ったが、自身も這々の体で大阪へと帰った。またその砌、内藤新十郎玄忠、その他少禄の輩たちが、
生玉の社内に於いてこれも荊組と口論して刃傷に及び疵を被って帰ってきた。

去年に渡辺が野田の藤見で闘争したことから始まり、今日内藤等が喧嘩をしたのも、皆大阪城から
西南の方向であったため、大阪衆はこの方角で合戦をして敗亡するという兆しではないかと囁きあった。

このような所に、同十九年二月四日、彗星が東より出た。この時朝鮮の浪客であった李文長という者に、
焦氏易林(漢代に成立した中国最古の術数書の一種)を以て占わせた所、
『人面九口長舌為斧、劉破瑚璉殷絶後』という辞に当たった。また曰く
「『集兵争強、失其貞良敗我殺卿』という辞あり。大いに凶なり」と申すにより、秀頼卿は驚かれ、
近国の諸社寺にて祈祷を仰せ付けられた。諸人これを聞いて、唯事ではないと眉をひそめた。

新東鑑

薩摩やら関東やらのあぶれ者たちが彷徨きまくっていて、大阪周辺の治安が悪すぎるお話。



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/08(月) 16:43:00.79 ID:VPtiyG+d
>>153
個人的には饗庭備後守という人物に驚いた。ちょうど「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」という論文読んでたところなので。
尊氏の寵童饗場命鶴丸を中興に諸国に所領や将軍料所代官を得た饗場氏も、最後に残った丹羽の所領も明智光秀に奪われて歴史史料からは姿を消す、という話だったが。大阪状に潜り込んだ一族もいたのかな?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 18:23:53.08 ID:5L2Ib+fa
薩摩浪人はこれまた。
伊集院の残党かな。

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 20:41:20.25 ID:Ivq4TMV4
江戸城も元禄の頃になるまで風紀乱れまくって
そこらで立ちションするやついたしむべなるかな
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >刀の鐺(こじり:刀の鞘の末端)に小さな車を付けていたが

    コロ助…

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