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小幡勘兵衛が甲州流兵学を作るまでの流れ

2021年11月20日 17:04

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 15:33:18.79 ID:ZS1x8Wsp
貝原氏(益軒)曰く、甲州流兵学の起こりは小幡勘兵衛(景憲)より始まる。
勘兵衛は甲州の武士・小幡山城(虎盛)の子である又兵衛(後豊後・昌盛)の子である。
豊後は天正三年(原文ママ・実際には十年)の武田勝頼滅亡の時に病死した。

勘兵衛はその時九歳であったが、家康公がこれを尋ね出し、勇士の末であるとして、井伊兵部(直政)と共に
秀忠公の御遊伴に定められた。

十六歳の時、武者修行の志有って、玄関にて髪を切って駆け落ちした。家康公はこれを憐れまれ、
尋ねさせられたがその居場所を知ることは出来なかった。
勘兵衛は所々を遊歴し、慶長五年の関ヶ原の時、井伊兵部に従って功があり、そのまま佐和山に浪人して
居住した。
慶長十九年、大阪冬陣に偽って籠城し、夏陣の時城を出、秀忠公に召し出されて御使番となった。

彼は高坂弾正の書を集め、また甲州の士が数人、井伊兵部に仕えて佐和山に在ったため、彼等に
武田信玄の事を尋ね聞いて、甲州流の兵術を建立して人の師となった。
高坂弾正の作った書は甲陽軍鑑十九冊、同末書上中下結、要本龍虎豹の三品である。

武芸小伝

小幡勘兵衛が甲州流兵学を作るまでの流れについて



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