847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 15:43:02.88 ID:k5YE3OPJ
徳川家の『厭離穢土欣求浄土』の御旗は、永禄五年の秋、三州一向宗の佐々木上宮寺、針崎正満寺、
野寺本称寺らが一揆を起こし、この時徳川家御譜代の面々も大勢、宗門のために数代の主君を捨てて
一揆に与し、家康公へ弓を引き、同七年九月に至るまで合戦止む時無かった。
また今川家によって三州に城を構えた勢力も、一向宗に一味した故に、徳川家の軍勢は大いに危うかった。
家康公は御菩提寺である三州浄土宗。大樹寺の住職である登誉上人に加勢の事を御頼みあった。
和尚は畏まって、浄土宗の寺院にも相触れ、その結果檀那の中の武士たるものは申すに及ばず、百姓町人に
至るまで馳せ集まり、その勢は千人余りに及んだ。
この時、和尚は自筆にて徳川家の旗に『厭離穢土欣求浄土』と書かれた。
この旗を真っ先に押し立てて一揆の中に攻め入り、死を軽んじて戦うと、一向宗は敗北し
徳川家の勝利と成った。
この文は生を軽んじ、死を幸いにする事を示す内容である。これはその始め、一向宗一揆の時に、
上宮寺の住持、吾檀那の輩が兜の真ん中に『進足極楽浄土 退足無間地獄』と書いたということより、
浄土宗の者達に対しても、この句を書いて死を勧めたものなのだという。
(新東鑑)
徳川家の『厭離穢土欣求浄土』の御旗は、永禄五年の秋、三州一向宗の佐々木上宮寺、針崎正満寺、
野寺本称寺らが一揆を起こし、この時徳川家御譜代の面々も大勢、宗門のために数代の主君を捨てて
一揆に与し、家康公へ弓を引き、同七年九月に至るまで合戦止む時無かった。
また今川家によって三州に城を構えた勢力も、一向宗に一味した故に、徳川家の軍勢は大いに危うかった。
家康公は御菩提寺である三州浄土宗。大樹寺の住職である登誉上人に加勢の事を御頼みあった。
和尚は畏まって、浄土宗の寺院にも相触れ、その結果檀那の中の武士たるものは申すに及ばず、百姓町人に
至るまで馳せ集まり、その勢は千人余りに及んだ。
この時、和尚は自筆にて徳川家の旗に『厭離穢土欣求浄土』と書かれた。
この旗を真っ先に押し立てて一揆の中に攻め入り、死を軽んじて戦うと、一向宗は敗北し
徳川家の勝利と成った。
この文は生を軽んじ、死を幸いにする事を示す内容である。これはその始め、一向宗一揆の時に、
上宮寺の住持、吾檀那の輩が兜の真ん中に『進足極楽浄土 退足無間地獄』と書いたということより、
浄土宗の者達に対しても、この句を書いて死を勧めたものなのだという。
(新東鑑)
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コメント
人間七七四年 | URL | -
こういう逸話があるから
浄土真宗では都合悪く一向宗に改変してるのか
( 2021年12月05日 22:10 )
人間七七四年 | URL | -
何も都合悪くないでしょ
( 2022年01月11日 19:35 )
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