242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 21:23:09.42 ID:vX+zcGAJ
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。
これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。
然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。
(中略)
或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽、
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。
本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った
「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」
と、残らず大阪城中へ遣わしたという。
(新東鑑)
大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。
これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。
然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。
(中略)
或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽、
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。
本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った
「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」
と、残らず大阪城中へ遣わしたという。
(新東鑑)
大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
藁をもすがる思いだったのか、豊臣が味方するように手紙出せば大名たちもなびくっしょwという感覚だったのか
( 2021年12月16日 20:30 )
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