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富田信高の妻

2021年12月18日 15:44

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 11:58:52.21 ID:HqeQe7BJ
勢州安濃津の城主、富田信濃守信高の妻は、宇喜多安心の娘であった。

石田三成の乱(関ヶ原)の時、西軍の毛利秀元長束正家安国寺恵瓊等が安濃津の城を攻めること急であった。
城中に、富田信高に対し追手が切って出、敵は気負い掛かって引き取り難く、既に危ういとの知らせが聞こえると、
信高の妻は甲冑を着け、片鎌の手槍を以て出撃し切って廻り、毛利秀元の士である中川清左衛門という
大剛の武者を突き殺し、五、六人を手負わせ、信高と共に本丸に引き入った。

その後、高野の與山上人(木食応其)の扱いによって、信高は西軍に城を明け渡し、同国一身田専修寺に入り、
剃髪して高野山に在ったが、この戦功によって、関ヶ原合戦の後召し出され、豫州宇和島十万石を賜った。

志士清談

安濃津の戦いでの、富田信高の妻の活躍についてのお話



899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 12:53:24.30 ID:6b3dO41e
そして妻の縁戚の坂崎直盛のせいで改易に
ついでに江戸の儒学者榊原篁洲「榊巷談苑」の本文の最後には
「このくににて、女の軍したるは、巴・板額ぞ世人もよくしれり。
北越太平記に、富田信濃守が妻の安濃の津にて軍したることをのせたり。本より據なきことなり。信ずべからず。
北越太平記・東国太平記は、紀州の宇佐美竹隠がつくりて、その名をばかくしけり。
おのれ宇佐美駿河守が末なりければ、件の太平記の中にも、事に寄せて駿河守をほめかがやかしけるとぞ。
さて景勝は大御所の神武にもまさり、政宗などは物の用にもたらぬ人の様にかきなしたり。」
と書かれている模様

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 16:25:40.08 ID:6b3dO41e
ついでに井上泰至「江戸の発禁本」によれば
篁洲が富田信高の妻の話を創作と断じたことについて
「関ヶ原軍記大成」の著者、宮川忍斎が安濃津城の戦いについて収集した家録類にはまったく見えず、後人の文飾ではないか、としていることをあげている。
なお宇佐美竹隠(定祐)が「北越太平記」や「東国太平記」の安濃津城の戦いについて用いたものは、内容のいい加減さで有名な「石田軍記」の以下の記事の丸写しだとか
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