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宝はいつでも金銀に限るわけではない

2021年12月24日 16:19

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 21:59:55.29 ID:VMPClW5p
>>905の吉田重成の息子の吉田久太夫について
黒田藩のさまざまな話をまとめた江戸中期の「博多細伝実録」から

黒田忠之の出世頭の侍に吉田久太夫というものがいた。二千五百石取りであった。
十六の時に島原の乱に出陣したが後衛を命じられたため、不満に思い先駆けを願ったが聞き届けられなかった。
武士と生まれて留守番とは口惜しいと思い、抜け駆けし先手に加わり敵を追いかけた。
これを見た忠之は「主人に叛く言語道断の奴ばらめ」と激怒し
翌日、久太夫を呼び「城楼に登って敵味方の様子を見て参れ」と内心殺すつもりで命令した。
久太夫は「かしこまりました」と言うや否や城楼に駆け上り、敵城の内を見渡した。
鉄砲の弾は雨のように降り注ぎ、兜の緒が切れたり、右肩をかすめたりしたが、久太夫は慌てず、こよりで兜の緒を結び直しそのまま偵察し続けた。
敵も味方も「あっぱれな若武者だ」と勇気を賞賛した。
忠之はよけいに立腹し、「汝のようなものはわが陣中には不要である!どこにでも立ち退け!」と告げたため
さてもの久太夫も国を追われ、三年ほど伏見や草津で馬の世話をして露命をつないだ。
その後、松平讃岐守が久太夫のことを知り
「黒田浪人吉田久太夫といえば島原の乱において十六でありながら角前髪を振り乱して勇気を披露し味方を鼓舞した者ではないか。
そのような惜しい士を埋もれさせてなるものか」
と方々に手を回して久太夫を探し出し、紛れもなく本人であると知ると讃岐に連れて行き三千石を与えた。
その後、江戸に諸大名滞在の折、讃岐守の屋敷に忠之も含め国持大名が集まり、料理に舌鼓を打ち、国々の噂や名物について話に花を咲かせた。
この時、讃岐守は忠之に対して「わたしは貴公より小身であり、国の財とてさしたるものもありませんが、近来殊のほか優れたものを見出しました」
と久太夫を忠之の前に出し、外に連れ出して久太夫の巧みな馬術を見せつけた。
世上流布する言葉に「宝はいつでも金銀に限るわけではない」と言う通りである。
忠之は大いに後悔し、久太夫に詫び、讃岐守と交渉して黒田藩に同じ三千石で戻してもらうことになった。
その後も久太夫の家は繁盛し、代々「久太夫」を名乗っている。



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