906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:03:32.01 ID:5CM2dYsf
山鹿素行「武家事紀」から仙石秀久・竹中半兵衛
仙石権兵衛尉秀久、濃州人、土岐の一流なり。
初め信長へ仕え、後に秀吉に仕えてたびたび戦功あり。
秀吉四国征伐の前、ひそかに仙石に命じて讃岐国に手遣わせしむ。
秀久命にしたがい、諸浪人をあつめ讃岐にこゆ。秀久軍使仙石角右衛門をはせてこの旨を告ぐ。
そのうちに大納言秀長四国に出勢。ついに四国平均によって讃岐国を秀久に賜う。
(戸次川の合戦、長宗我部信親討死や領国没収の話)
天正十八年小田原役に軍勢の形粧を見物のため、秀吉日岡に桟敷をかまえ出でたまう。
この時諸勢に先立って糟尾冑に白練に日の丸を出せる陣羽織を着たる武士押し行き、秀吉これを尋ねさせたまえば仙石秀久なり。
秀吉感悦の上、北条滅亡ののち、信州小室(小諸)六万石を賜う。
竹中半兵衛尉重治
(斎藤家に仕えていたがなんだかんだで信長の命で秀吉に属し)
信長江北の征伐、秀吉先軍をつとむ。重治あい従いて軍事を議すに中(あた)らずということなし。
浅井長政、長比・長亭軒の二城をかまえて信長をさえぎる。
竹中重治が謀によりて、堀二郎(堀秀村)が老臣樋口(直房)・多羅両人に信長へ降参のことをすすむ。両人、義を守りて従わず。
重治いいけるは「義に大小あり。小義を立てて大義を失うことは、君子はなさず。
今堀二郎幼若なり。両臣降伏をいれず、小義を守りて滅亡不日なるべき浅井に与し、家を失い、身を殺すこと、これあに忠というべきや」と理を尽くして諷諫す。
これにより堀二郎(このとき十二才)長亭軒城をもって信長に降伏す。
(浅井攻め、長篠の戦いで活躍)
三木の別所長治、一族をあつめ秀吉に叛く。
秀吉これを攻撃す。その軍事みな重治が謀るところよりいず。
重治病におかされ、上京して養療すとらいえども、不快につき三木の陣営平山にかえり、陣中において卒す。
勇士、死するといえども戦場を忘れざるなり、年三十五。
(中略)
重治つねに数珠をつまくりける。
死期に臨みて家人ら数珠を与う。
重治、大いに怒りてこれを投げ棄て
「わが数珠は死後の競望あって所持のことにあらず」と言えりとぞ。
そのほか、美濃で若い頃は「鼻たらし」と馬鹿にされたとか、数珠をくりながら「美濃には誰もいない」とつぶやいていたとかいう逸話もあるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10843.html
同じ山鹿素行の「士談」出典で前にも出ていたので省略。
907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:26:49.69 ID:5CM2dYsf
あと、竹中半兵衛が降伏を勧めた堀秀村配下の樋口直房はもともと半兵衛と旧知の仲で稲葉山城奪取の後の半兵衛の世話もしたらしい。
ただ一向一揆勢と秀吉の了解を得ずに和睦したため、秀吉に謀反とされ直房は斬首。主君の堀秀村も所領没収されてしまった。
山鹿素行「武家事紀」から仙石秀久・竹中半兵衛
仙石権兵衛尉秀久、濃州人、土岐の一流なり。
初め信長へ仕え、後に秀吉に仕えてたびたび戦功あり。
秀吉四国征伐の前、ひそかに仙石に命じて讃岐国に手遣わせしむ。
秀久命にしたがい、諸浪人をあつめ讃岐にこゆ。秀久軍使仙石角右衛門をはせてこの旨を告ぐ。
そのうちに大納言秀長四国に出勢。ついに四国平均によって讃岐国を秀久に賜う。
(戸次川の合戦、長宗我部信親討死や領国没収の話)
天正十八年小田原役に軍勢の形粧を見物のため、秀吉日岡に桟敷をかまえ出でたまう。
この時諸勢に先立って糟尾冑に白練に日の丸を出せる陣羽織を着たる武士押し行き、秀吉これを尋ねさせたまえば仙石秀久なり。
秀吉感悦の上、北条滅亡ののち、信州小室(小諸)六万石を賜う。
竹中半兵衛尉重治
(斎藤家に仕えていたがなんだかんだで信長の命で秀吉に属し)
信長江北の征伐、秀吉先軍をつとむ。重治あい従いて軍事を議すに中(あた)らずということなし。
浅井長政、長比・長亭軒の二城をかまえて信長をさえぎる。
竹中重治が謀によりて、堀二郎(堀秀村)が老臣樋口(直房)・多羅両人に信長へ降参のことをすすむ。両人、義を守りて従わず。
重治いいけるは「義に大小あり。小義を立てて大義を失うことは、君子はなさず。
今堀二郎幼若なり。両臣降伏をいれず、小義を守りて滅亡不日なるべき浅井に与し、家を失い、身を殺すこと、これあに忠というべきや」と理を尽くして諷諫す。
これにより堀二郎(このとき十二才)長亭軒城をもって信長に降伏す。
(浅井攻め、長篠の戦いで活躍)
三木の別所長治、一族をあつめ秀吉に叛く。
秀吉これを攻撃す。その軍事みな重治が謀るところよりいず。
重治病におかされ、上京して養療すとらいえども、不快につき三木の陣営平山にかえり、陣中において卒す。
勇士、死するといえども戦場を忘れざるなり、年三十五。
(中略)
重治つねに数珠をつまくりける。
死期に臨みて家人ら数珠を与う。
重治、大いに怒りてこれを投げ棄て
「わが数珠は死後の競望あって所持のことにあらず」と言えりとぞ。
そのほか、美濃で若い頃は「鼻たらし」と馬鹿にされたとか、数珠をくりながら「美濃には誰もいない」とつぶやいていたとかいう逸話もあるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10843.html
同じ山鹿素行の「士談」出典で前にも出ていたので省略。
907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:26:49.69 ID:5CM2dYsf
あと、竹中半兵衛が降伏を勧めた堀秀村配下の樋口直房はもともと半兵衛と旧知の仲で稲葉山城奪取の後の半兵衛の世話もしたらしい。
ただ一向一揆勢と秀吉の了解を得ずに和睦したため、秀吉に謀反とされ直房は斬首。主君の堀秀村も所領没収されてしまった。
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