13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 00:47:33.93 ID:1Rfa/aIX
原大隅守の力の事
大友宗麟公の侍・原大隅守は吉野というところを領し、人より優れた力があった。
・ある時、肥後国・戸の口に南蛮國より石火矢500 挺来て、一挺16 人にて臼杵丹生島城の庭に並べた。
宗麟公は大隅を呼びて「一人して持ってみよ」と仰せければ、大隅筒先より起こし肩に乗せ庭を二、三度回りて元に戻す。
宗麟公、大力をまだご覧になりたいということなので、自然石の大きな手水鉢の場所を直させたが
満杯の水はこぼれなかったため、御感じになったということだ。
・ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが下向して勧進のため相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。
その後大隅のいる臼杵丹生島に来て大隅と業を争うとした。
雷は鹿の角をつまんで砕き、大隅に力を見せつけた。
大隅はでは相撲を取ろうと門前に植わっていた大竹を庭に出してきて、竹を一節ずつつまんで潰し、丸めて両端をくっつけて土俵とした。
これを見た雷も辻風も驚き「諸国をめぐったがこのような力は見たことがない」と降参した。
・そのころ武宮武蔵守という宗麟公のおそばに背丈が八尺の大男がいた。
ある時、大隅は肩衣袴姿で武宮を両手ですくい、座上になおしたという。
・ある時、三重で売買をしていた者どもが乱闘騒ぎを起こし、二百人と百六十人で斬り合っていた。
そこにたまたま行き合った大隅が柄が一丈、刀が六尺の大長刀を持って二百人の方へとびこみ、
「ここに原大隅というものあり、あぶれ者に申さん、狼藉はさせまじぞ!」
と追い散らすと、残りのものも「お屋形様のお側の大力の大隅殿だ」と双方ともに逃げてしまった。
14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 00:52:05.76 ID:1Rfa/aIX
出典書くのを忘れていた。「大友興廃記」からです
・ある時、大隅守は伊勢大社に宿願の儀あって宗麟公に暇をつげ、ついでに土佐の一条中納言康政公(「大友興廃記」は一条兼定を、文書発給をしていた源康政と間違えている)は、
宗麟公の婿で大力と聞こえたので力比べをしようと康政公のところに名前を隠して出た。
康政公は広間にて盤持(大石を持ち上げて力比べをすること)をしようと持ちかけた。大隅は手加減をしてわざと負けた。
その後、康政公は大筒を褒美に出してきたが、「これは思いもよらぬ事」と辞退をしているうちに康政公の力が尽きてきて鉄砲の先が降りてきたため、
大隅は指を筒先に入れて鉄砲を水平にして受け取り、三度頭を下げて鉄砲を置いて去った。
「あの怪力は豊後の原大隅守であろう、ほかにあれほどの怪力はおるまい」と噂になったということだ。
・土佐を出ると十六端の舟に乗って帆柱を肩にのせ、舟中の評判になった。
摂津国兵庫では新造の大船で七、八十人であつかうものを一人で海へ引っ張っていったため、「鬼か神か」と人々は言ったという。
・兵庫から大坂につくと六月二十九日の住吉の神事で相撲を取っていた。
大隅が大竹の節を潰して帯に結んで出ようとすると「角力の勝負はつきました。どの国のどなたですか?」と聞かれたがはぐらかした。
洛中では大きな牛車と行き合ったため片手で押し出して通り抜け、伊勢に参拝して豊後に下向した。
宗麟公は大隅から旅の話を面白く聞き、知行をあてがったが、二、三年して御勘気があった。
知行没収されそうなところを佐伯惟教が口添えしてくれたため元の如くに安堵された。
原大隅守の力の事
大友宗麟公の侍・原大隅守は吉野というところを領し、人より優れた力があった。
・ある時、肥後国・戸の口に南蛮國より石火矢500 挺来て、一挺16 人にて臼杵丹生島城の庭に並べた。
宗麟公は大隅を呼びて「一人して持ってみよ」と仰せければ、大隅筒先より起こし肩に乗せ庭を二、三度回りて元に戻す。
宗麟公、大力をまだご覧になりたいということなので、自然石の大きな手水鉢の場所を直させたが
満杯の水はこぼれなかったため、御感じになったということだ。
・ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが下向して勧進のため相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。
その後大隅のいる臼杵丹生島に来て大隅と業を争うとした。
雷は鹿の角をつまんで砕き、大隅に力を見せつけた。
大隅はでは相撲を取ろうと門前に植わっていた大竹を庭に出してきて、竹を一節ずつつまんで潰し、丸めて両端をくっつけて土俵とした。
これを見た雷も辻風も驚き「諸国をめぐったがこのような力は見たことがない」と降参した。
・そのころ武宮武蔵守という宗麟公のおそばに背丈が八尺の大男がいた。
ある時、大隅は肩衣袴姿で武宮を両手ですくい、座上になおしたという。
・ある時、三重で売買をしていた者どもが乱闘騒ぎを起こし、二百人と百六十人で斬り合っていた。
そこにたまたま行き合った大隅が柄が一丈、刀が六尺の大長刀を持って二百人の方へとびこみ、
「ここに原大隅というものあり、あぶれ者に申さん、狼藉はさせまじぞ!」
と追い散らすと、残りのものも「お屋形様のお側の大力の大隅殿だ」と双方ともに逃げてしまった。
14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 00:52:05.76 ID:1Rfa/aIX
出典書くのを忘れていた。「大友興廃記」からです
・ある時、大隅守は伊勢大社に宿願の儀あって宗麟公に暇をつげ、ついでに土佐の一条中納言康政公(「大友興廃記」は一条兼定を、文書発給をしていた源康政と間違えている)は、
宗麟公の婿で大力と聞こえたので力比べをしようと康政公のところに名前を隠して出た。
康政公は広間にて盤持(大石を持ち上げて力比べをすること)をしようと持ちかけた。大隅は手加減をしてわざと負けた。
その後、康政公は大筒を褒美に出してきたが、「これは思いもよらぬ事」と辞退をしているうちに康政公の力が尽きてきて鉄砲の先が降りてきたため、
大隅は指を筒先に入れて鉄砲を水平にして受け取り、三度頭を下げて鉄砲を置いて去った。
「あの怪力は豊後の原大隅守であろう、ほかにあれほどの怪力はおるまい」と噂になったということだ。
・土佐を出ると十六端の舟に乗って帆柱を肩にのせ、舟中の評判になった。
摂津国兵庫では新造の大船で七、八十人であつかうものを一人で海へ引っ張っていったため、「鬼か神か」と人々は言ったという。
・兵庫から大坂につくと六月二十九日の住吉の神事で相撲を取っていた。
大隅が大竹の節を潰して帯に結んで出ようとすると「角力の勝負はつきました。どの国のどなたですか?」と聞かれたがはぐらかした。
洛中では大きな牛車と行き合ったため片手で押し出して通り抜け、伊勢に参拝して豊後に下向した。
宗麟公は大隅から旅の話を面白く聞き、知行をあてがったが、二、三年して御勘気があった。
知行没収されそうなところを佐伯惟教が口添えしてくれたため元の如くに安堵された。
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