353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/16(水) 11:20:01.09 ID:QRrDT6wP
一説、塙団右衛門(直之)は大坂夏の陣・樫井の戦いにおいて、多胡助左衛門に射られながら駆け寄り、
多胡の弓の弦を十文字の鑓にて突き懸かったが、その時八木新左衛門が鑓を以て渡り合った。
塙直之は重傷であったが、小家の壁に寄りかかり、八木と鑓を合わせ、首を新左衛門に取らせ、
天晴なる討死をしたという。
別本に、亀田大隅(高綱)の家記に、塙団右衛門を彼が討ち取ったと伝わる。即ち直之の具足も、かの家に
有るという。しかし浅野家においては八木新左衛門が討ち取ったことに決定している。亀田方はこれを
憤ったとされるが、亀田の息子である半左衛門曰く
「父大隅一代の軍功、挙げて数えることも出来ないほどだ。それなのに塙の首一つをとやかくと
論ずるには足りない。如何様にも申されればいい。それに憤るような事は無い。」と申したという。
ある本に、団右衛門の死体を埋めた塚は、樫井村の北の方にあるが、紀伊国衆の小笠原作右衛門という人が
直之の親類で、その塚に五輪を立てたという。
別記に、この当たりの土地の者達曰く、毎年七月十五日には加州金沢の人がここに来て、墓の塵を払い、
燈籠に火を揚げるという。然れば塙の子孫は加賀国に在るのだろうかと言っていた。
(新東鑑)
塙団右衛門の討死について
一説、塙団右衛門(直之)は大坂夏の陣・樫井の戦いにおいて、多胡助左衛門に射られながら駆け寄り、
多胡の弓の弦を十文字の鑓にて突き懸かったが、その時八木新左衛門が鑓を以て渡り合った。
塙直之は重傷であったが、小家の壁に寄りかかり、八木と鑓を合わせ、首を新左衛門に取らせ、
天晴なる討死をしたという。
別本に、亀田大隅(高綱)の家記に、塙団右衛門を彼が討ち取ったと伝わる。即ち直之の具足も、かの家に
有るという。しかし浅野家においては八木新左衛門が討ち取ったことに決定している。亀田方はこれを
憤ったとされるが、亀田の息子である半左衛門曰く
「父大隅一代の軍功、挙げて数えることも出来ないほどだ。それなのに塙の首一つをとやかくと
論ずるには足りない。如何様にも申されればいい。それに憤るような事は無い。」と申したという。
ある本に、団右衛門の死体を埋めた塚は、樫井村の北の方にあるが、紀伊国衆の小笠原作右衛門という人が
直之の親類で、その塚に五輪を立てたという。
別記に、この当たりの土地の者達曰く、毎年七月十五日には加州金沢の人がここに来て、墓の塵を払い、
燈籠に火を揚げるという。然れば塙の子孫は加賀国に在るのだろうかと言っていた。
(新東鑑)
塙団右衛門の討死について
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | b5.M5V.g
間を取って上田宗箇ってことで
塙団右衛門ほどの名のある首級を挙げたのだから秀忠か家康の前で首実験してる訳で
八木新左衛門が主の浅野家だけでなく幕府からも公認なんだろう
亀田高綱が人知れずネチネチ言って他人の武功を横取りしようとしてもな
( 2022年02月16日 19:40 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
※1の方がネチネチしてそう(コナミ)
( 2022年02月16日 21:23 )
人間七七四年 | URL | -
団右衛門を
助左衛門が射て
新左衛門が首を取り
半左衛門はとやかく論ずるなと言い
作右衛門が塚に五輪を立てた
( 2022年02月16日 21:29 )
人間七七四年 | URL | -
亀田大隅
>慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の前哨戦である樫井の戦いでは
>上田重安とともに豊臣軍を撃退した。寛永元年(1624年)、
>論功を巡って重安と争い、浅野家を去ると和泉国堺に閉居した後、高野山に隠棲、
この件かわからんが思いっきり論功に拘っているやんけ本人は
( 2022年02月17日 04:20 )
人間七七四年 | URL | -
※4
そりゃ本人はこの逸話でも憤ってるし
憤ってないと言い張ってるのは息子だけど、真偽はともかくこの時代の武士に取って功名の取消しとか横取りなんて下手したら刃傷沙汰でしょうよ。
( 2022年02月17日 05:01 )
コメントの投稿