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木村重成の首実検

2022年03月11日 16:33

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/11(金) 11:22:45.21 ID:syA2p2iq
大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いの後、大御所(徳川家康)の元に井伊直孝より、
大阪方の木村長門守(重成)、山口左馬介、内藤新十郎等の首がもたらされ献上された。
大御所は移動中であったが、平岡の一里ほど前にて御駕籠を止められ、それらの首を上覧された。

この時、木村重成の首からは甚だ香が薫じており、大御所の仰せに
「若輩なる長門守がかかる行跡、稀代の勇士、不憫の次第である。」
と宣われた。

記(難波戦記)に、この時大御所の近臣達は木村のことを評し、
「長門守は所労(病気)であったとの聞こえがあるが。今日も死を決意していなかったのだろうか、
月代を剃っていない」と、口々に申したのを、家康公は聞き召され

「月代には因るべからず。既に忍の緒を真結びにして、両端を切って捨てている。これは再びこの兜を
脱がないという心底であり、討死と極めていたという事である。汝らが申し分、無検議である。」
と仰せられたという。

或る本に、木村は討死の前日風呂に入り髪を洗い、頭に伽羅を留め、江口の曲舞なる、紅花の春の朝と謳い、
余念なく小鼓を打ったが、今日大御所は首実検をなされ涙を流され

「この若者は討死を決意し、髪に香を留めながら、月代を剃らなかったのだ。」
(此若者討死を極め、髪に香を留め乍ら、月代を剃らざりし)

と仰せに成られた。この時、重成の髪を梳き香を焼いた女は、江戸に於いて木原意運という外科医の伯母で
あり、常にこの事を語っていたという。

或る記に、長門守木村重成の墓は、河内国若江郡西郡村に有り、山口重政の墓と隣り合っているという。
木村の父は常陸介、母は豊臣秀頼公の乳母であった。
重成、時に二十五歳であったという。

新東鑑

木村重成の首実検について



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