413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/23(水) 11:11:40.99 ID:7PYVe/vM
今まで何度か出ている館林城の狐の話を朝野雑載から(時代的には微妙)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来
大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。
付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。
424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 17:31:47.22 ID:Q9oMo27y
>>413のより詳しい話が
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)
前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。
とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。
今まで何度か出ている館林城の狐の話を朝野雑載から(時代的には微妙)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来
大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。
付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。
424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 17:31:47.22 ID:Q9oMo27y
>>413のより詳しい話が
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)
前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。
とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
>稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、
稲荷明神の狐は神本体ではなくて神使だし、
稲荷は神階とはいえ正一位だからあんたの主の将軍家より位階は上だよなぁ
とは口答えできんわな
( 2022年03月24日 03:11 )
人間七七四年 | URL | -
狐に包まれたか…
∧_∧
/ ヽ
|` ´|
`<>○<>\= oノ
/ハ\⊂二_ヽ
`/ ∧_∧ヽ |
|(´∀`)|ヽ | |ヽ
| \yノ |( |ノ |
ヽ___ノと_ノ_ノ
( 2022年03月24日 06:47 )
人間七七四年 | URL | -
成る程、乗寿公は
「それは私のお稲荷さんだ。」
とやった訳ですね。(違
( 2022年03月24日 13:12 )
人間七七四年 | URL | -
お稲荷さん、日本には二系統あるみたいね。
( 2022年03月25日 23:17 )
人間七七四年 | URL | -
老中が三人とも出来た人で良かったけど、話の転がり方次第では何らかの処罰になりかねない案件よね。乗寿も肝が冷えたでしょ。
( 2022年03月26日 06:50 )
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