104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/28(月) 18:00:38.53 ID:oDQvJ5ak
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。
私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。
島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。
この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。
(医学天正記)
九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話
天正十五年(1587)春、毛利右馬頭(輝元公)は、関白大相国(豊臣)秀吉公が島津征伐のため
御動座された時、輝元は豊前小倉に在ったのだが、そこに於いて沈痾(長く治らない病気)によって
臥せ、吐瀉、下血が止まらなかった。心臓の下に堅いしこりがあり、左脚脛が腫れ、高骨に痛みがり、
更に歩行も出来なかった。
私(曲直瀬玄朔)は殿下の命によって小倉に至り、これを治療した。
十数日ほどすると、足の痛みは大半減じ、輝元は馬に乗って、豊後を経て日向に入った。
私もそれに従い、治療を続けた。
島津降参の後、豊臣軍は撤収したが、輝元も安芸吉田に帰り、秋の末に至って病は平復した。
そのため私も帰洛した。
この治療において、初めは朮苓、陳通巳役乳、近膝参甘の類い、後は参朮苓、甘霍朴、半貴、青芍、膠帰の
類いを処方した。出入りの加減によって平安となった。
(医学天正記)
九州役の時に毛利輝元が病に臥せていたらしいというお話
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この時秀元に代替わりしてたら…と考えると結構重要なターニングポイントだったのでは
( 2022年03月28日 19:22 )
人間七七四年 | URL | -
この時に輝元が死んだら毛利家当主は秀元になるのか?
最悪、毛利家領国が分割されて一門・重臣達が独立大名として秀吉に仕える事になるのかねぇ。
( 2022年03月28日 19:58 )
人間七七四年 | URL | -
この時点で輝元早世からの代替わりは流石に減俸転封あり得そうで両川と毛利一門に取ってはかなり不味いことになってしまいそうな気がする。
丹羽家と違ってそこまで行かないにせよ、有力家臣へ豊臣一門筋の養子婚姻縁組やら色々楔を打たれてしまう気がする。
( 2022年03月28日 20:26 )
人間七七四年 | URL | -
九州攻めの時点で毛利はラスボスに完全臣従しているんだったか?
( 2022年03月29日 06:40 )
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