444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/15(金) 18:13:31.33 ID:V3JBKu5c
或る本に、大坂夏の陣の後、大御所(徳川家康)は帰陣し二条城へと入ったが、この時水野日向守(勝成)を
召して言った。
「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」
そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。
されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。
同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。
(新東鑑)
水野勝成が家康から叱られたお話
或る本に、大坂夏の陣の後、大御所(徳川家康)は帰陣し二条城へと入ったが、この時水野日向守(勝成)を
召して言った。
「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」
そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。
されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。
同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。
(新東鑑)
水野勝成が家康から叱られたお話
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