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重ねて問うことがあるか

2022年05月04日 18:05

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/04(水) 17:34:58.60 ID:Rtv2PDY4
慶長二十年五月十一日、高力摂津守忠房は命ぜられて、和泉国に入って大阪の残党を捜索した。
高木筑後守正次、山田十太夫重利を監使として、和州の諸将である桑山、別所、松倉等が相共に探った。

大阪の城兵であった山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝は、八幡の瀧本坊に忍んでいたが、
同十二日、かの山に落人が隠れているという風聞ががあったため、秋元但馬守泰朝に命じて尋ね捜させた。
この時、山本、北側の両人は、瀧本坊の法印に申した
「御詮議が有った場合、これに言い訳することも出来ないでしょう。なので我ら両人は罷り出で、切腹仕ります。」

これに対して法印は
「もし幕府からのお尋ねが在れば、『一宿は致させましたが、その後は何処へ参ったのか存じません。』と
申し上げます。その上でのお計らい次第にすべきであり、返す返すも両人とも、切腹のことは思い止まって下さい。」

そう申したため、山川、北川らはすぐに逐電した。しかしこれによって幕府方は瀧本坊を捕え、
板倉伊賀守(勝重)の元に召し籠められた

或る本に、同十七日、山川帯刀、北川治郎兵衛は本能寺へ来て、
「我ら両人は大阪の落人であり、先に瀧本坊の所に隠れ居たのだが、かの僧が京都に生け捕られたと承った。
願わくば我ら両人が死刑に遭い、瀧本坊の赦免を乞い奉る!」

そのように言い、この旨は本能寺より京都所司代へ訴えられた。

この時、本多上野介(正純)が大御所(徳川家康)に対し、「訴え出てきた落人を、何方へか召し預ける
べきでしょうか」と窺った所、仰せに
「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」
と、そのまま本能寺に差し置かれた。

その後、大御所は「両人の者共は、大阪にて良い茶を呑みつけただろうから、寺で出される質の悪い茶には
迷惑するであろう。この茶を取らせよ。」と仰せられ、手づから正純へ遣わされた。正純はこの茶を
御使の何某に渡し、何某は受取ってかの寺へ行って、山川、北川の両人に
「すぐに切腹が仰せ付けられるだろう。その心得あるべし。」と、上意の趣を言い渡したが、
その後、大阪の様子、並びに国大名、大身小身に寄らず、心を通じた者は無かったかと尋ねたが、両人は

「それがしは外様者故、何も存じません。」

と答えた。
そのため使いの者は、「左様に申し上げたい事だが、上様にそのような返答は罷りならない。
一ヶ条であっても申し上げられるべし。」と言ったが、両人は重ねて
「されど存ぜぬことは、申されません。」と言った。

上使は又言った「両人の事をそれがしが能きように執り成すので、私の言う通り申し上げられよ。」

これに山川帯刀は立腹して「豊臣家滅亡の上は、頼り入りたい事はこれ無し!然るを、
人も頼まぬことを取り持ちたがる人、私はその方を頼む人を取り持ってやろう!」
そう言って様々に悪口したため、上使も大いに怒り、「さらばその通りを言上すべし!」と申し、
立ち返って大御所へ一々に申し上げ、散々に悪く言った。

ところが家康公は聞かぬ御顔にて、
「彼ら両人は、大阪に於いて勇者と呼ばれた者達だ。一度知らぬと申し出たのを、重ねて問うことがあるか!」
と、使いの者を強く叱りつけた。

かの両人には切腹を仰せ付けられるべしとの御沙汰であったのだが、如何なる事か、八月三日、還御の時に
御赦免あって、両人共に京都に住んだが、翌年、大御所が薨去されると、同年八月、京都の浪人払のため、
山川帯刀は平戸に、北川治郎兵衛は大村へ遣わされたという。

新東鑑



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