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本多正純と根来衆

2022年05月15日 17:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/15(日) 17:30:18.37 ID:JusC5b42
元和二年(1616)六月七日、本多佐渡守政信は七十九歳にて卒した。

或る記に、政信在世の間に、嫡子上野介(正純)へ
「私が没後に、必ず其の方へ御加増があるだろう。三万石までは、下されることに成れば御請け申せ。
もしそれ以上仰せ出されれば、御請けは決して無用である。冥加に尽きる。」

と言ったのだが、後年十五万石にて、下総国宇都宮城主に仰せ付けられ、根来衆百二十人を御預けになった。
この根来衆の組頭は、大納言、少納言という同心であった。彼らは度々御陣の供奉をして手柄が有った。
故に、一騎をも勤めるほどの者であった。

この根来衆という者達は、紀州根来寺の僧の末である。秀吉公の時。下知に背くこと有って、天正十三年
三月二十三日、秀吉公が彼らを攻めたが、悪僧たちは一味うぃ、近国隣里のあぶれ者どもを招き集め、
防ぐこと甚だ疾かったため、秀吉公の軍勢は追い立て追い立て、あら手を入れ替え攻めたにもかかわらず、
悪僧達は事ともしなかった。そのため「この寺しばらく破り難し」と、攻め倦ねた所を、筒井順慶が
兵士を下知して頻りに火矢を発した故に、城中俄に火災が起って、死する者千六百余人に及んだ。

これによって悪僧たちは防ぐ手段もなく散々に成って退いたが、武勇を顕す者共であったので、
「根来寺が破却され、今更高野山に従うのも口惜し」と思い流浪していたのを、徳川家康公が
聞き召され、その中から百余人を抱えられ、御先手として定められた。これを「根来組」という。
現在徳川家にその氏族があるのは、大略この時より始まるのだという。

然るに、本多正純は自身の功に誇り、宇都宮の城普請の節、彼の御預かりになっていた根来組に対して、
壁拒の普請をするようにと申し付けた。しかし根来の者共は、「これは癖事である」と勤めなかった。
これに正純は怒り、一人も逃さず、その女房子供まで首を刎ね、塚を築いて埋めた。

この悪事により、元和八年、正純は羽州由利の地に配流されたという。

新東鑑



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    宇都宮は下野であるぞ!
    この無礼甚だ堪え難し、かくなる上は
    城に引きこもり一戦交える所存なり!

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