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近衛信尋と伊達政宗と福島正則

2022年05月25日 18:02

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 21:54:11.27 ID:UW7pG4Rp
槐記享保十年八月十三日の記事より

近衛信尋伊達政宗福島正則 後半部分は既出ですが

この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」

「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」

信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | x0g92yAY

    >政宗は政宗呼び

    い つ も の

  2. 人間七七四年 | URL | -

    片目政宗ってすごいですね。
    本人は片目を嫌がってたのに、まあ。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    >本人は片目を嫌がってたのに、まあ。

    肖像画で「右目を描け」ってのは、「親から頂いた五体満足な肖像画にしてくれ」っていう
    儒教的な孝行心の発露であって、

    政宗自身は生前から、上人自身も隻眼だった満海上人(東北地方に伝承はあるっぽいのだが
    歴史的事跡が私はよくわからん)の生まれ変わりと自称、つまり
    「あれ~、聖職者から転生したら俺、武将の子なんだけど、なんか常識はずれなこと、やっちゃいました?」が転生政宗から見た人生。
    廟の瑞鳳殿も満海上人の入没の地だという

    むしろ「片目であること」をさんざん利用していた

  4. 人間七七四年 | URL | -

    片目政宗という豪速球のヘイトスピーチ

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