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異国船着岸 附・鉄炮の事

2022年06月26日 14:40

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/25(土) 22:49:22.14 ID:POeF0AOd
両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」

享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)

種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    イタリアからフランスにカトリーヌ・ド・メディシスが婚姻で入ったのが1533年。
    彼女がイタリアの先進文化地域(フィレンツェ)から「フォークで食事する」慣習をフランスにもたらしたというのが俗説。
    それ以前は手づかみだと。

    >我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
    >朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。

    「上下の礼儀がなく」は儒家の言うことだから、
    キリスト教徒の「主の前には平等・・・・」を「礼儀なし」と表現したかもしれん

    「手づかみで食っていた」のは、スペイン・ポルトガルの南蛮諸国もそうだったんかね
    南蛮宣教師は日本中国の「箸で食う」をどう思ってみていたんだろう

  2. 人間七七四年 | URL | -

    いまでこそパンやチキンを手にとって食べることに違和感は無いが、昔からしたら蛮習もいいところなんだろうな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    フォークは教会関係者から人を堕落させる悪魔の道具と呼ばれるほど嫌われていたらしい
    曰く、神から与えられた指を使うのが当然とのこと
    現代の保守的なカトリックはマスクにすら「神から与えられた呼吸器系を塞ぐなどもってのほか」と言ってたりする

  4. 人間七七四年 | URL | -

    「食事に手で直に触ることへの忌避」といえば、直接手で触らずに料理を捌く庖丁式があるが、
    あれはもともとの成り立ちから、
    「見世物的な曲芸」だったのか、それともやむにやまれぬことで発明された
    「実用的な手工」だったのか?

    現代における庖丁式は「見世物」だけど、「穢れ」を禁忌とする古代日本では
    本気で「下賤の者が触ったものは高貴なる方の口には入れられぬ」と思っていたんだろうが

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