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明の日本への援兵要請の時の話

2022年07月16日 15:58

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:08:02.39 ID:T4jJtv0Z
朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話

家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠教は1639年死亡)



294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:15:13.67 ID:WAJ05+SS
鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:02:53.97 ID:V+56qfjT
>>293
井伊さんおっしゃる通り
そして自称ご意見番のバーバリアンにはこんな見識ないと思う

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:42:21.63 ID:hQTuVJNr
ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、 略…
    文禄慶長の役の時の明は別に太平に馴れた弱兵って訳じゃないよね
    常にどこかで反乱や外敵の侵入に対処し続けてたし。日本が予想以上に戦馴れしてたのだろう。
    それにしても、日本が太平に馴れて弱兵化したって認識していたのなら
    外敵侵入に備えてソレ用の常備軍的なモノを編成しようとはならなかったのね。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    武闘派の井伊家からそんな話されたらそりゃ説得力あるよね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    細かいところだけど、彦左衛門は大久保忠教では?

  4. 人間七七四年 | URL | -

    元スレの投稿者です。
    忠隣は自分の間違いで忠教が正しいです。すいません。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    関ケ原から大坂の陣までの15年間で戦を知らない新兵だらけになったって話があるし、江戸時代までいくとそりゃね

  6. 人間七七四年 | URL | -

    九州の人たちだけは戦ったばかり

  7. まとめ管理人 | URL | -

    ※4
    直しておきました~

  8. 元スレ投稿者 | URL | -

    管理人さん、ありがとうございます

  9. 人間七七四年 | URL | -

    1638年終結の島原の乱でも幕府派遣軍上司の板倉重昌が百姓に撃たれて戦死してるもんな

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