351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」
との御書付を献じられた。
この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。
利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した
「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。
陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」
直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」
そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し
「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」
そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして
「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」
と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。
(新東鑑)
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」
との御書付を献じられた。
この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。
利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した
「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。
陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」
直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」
そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し
「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」
そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして
「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」
と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。
(新東鑑)
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コメント
人間七七四年 | URL | -
政宗「ひこにゃんはわしが育てた」
( 2022年09月06日 01:22 )
人間七七四年 | URL | -
「百万石のお墨付き」は破損していない状態で仙台市博物館が所蔵している。
(福岡の展覧会ででるかどうかはわかりませんが)
この逸話の「二つ三つに引き裂いた」以前のどこかからが「後からの脚色」のは確実だが、
もしかして冒頭から??
( 2022年09月06日 05:54 )
人間七七四年 | URL | -
家光と政宗の関係から考えると、そもそも政宗がこのお墨付きを持ち出したこと自体が
「やっぱり外様大名でも将軍様配下ですよ」「ですよねー」のこの決着まで至る
ブック付きのプロレスだった、ということもありえるか
( 2022年09月06日 06:28 )
人間七七四年 | URL | -
そのお墨付き、セキレイの眼は開いてたのかな?
政宗の花押が記されてる訳はないけど書いたのは政宗かもしれない…っていうかそもそも“御証文の写し”って言ってますね。
( 2022年09月06日 18:53 )
人間七七四年 | URL | -
家光を喜ばせるための幕臣と政宗によるコントだったのかも知れない
( 2022年09月06日 20:44 )
人間七七四年 | URL | -
仙台市博物館の収蔵ページで、「百万石のお墨付き」はこのページの最下部です。
://www.city.sendai.jp/museum/shuzohin/shuzohin/shuzohin-12.html
( 2022年09月06日 22:27 )
人間七七四年 | URL | 4lXsiBFM
> 4
写しは幕府に提出したもの。
その後直政が訪問して「直筆かどうか確認したい」と言われたんだから、原本を出さないと確認できないだろ。
(そしてなぜか現存してる)
( 2022年09月08日 19:37 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
※4
6の仙台市博物館の画像を見るとわかりますが、花押は政宗ではなくて、家康(というか徳川将軍家)の「乃+_」みたいなのです。
家康から政宗への「東軍に参陣してくれたらこれらの郡あげるで」っていう覚書なので。
まあ各武家で保存はされてないかもですが、似たような覚書は各所の大名小名に出しまくっていたんでしょうね
( 2022年09月09日 18:57 )
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