478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/18(金) 20:38:56.88 ID:NfUjnO14
黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世
聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話
また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。
479 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 09:37:49.54 ID:c1b3DFvx
父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。
小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?
480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 20:38:42.75 ID:rRD8bnz+
筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?
481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/19(土) 23:12:48.94 ID:47ZLOosC
以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
「古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。
黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世
聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話
また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。
479 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 09:37:49.54 ID:c1b3DFvx
父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。
小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?
480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 20:38:42.75 ID:rRD8bnz+
筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?
481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/19(土) 23:12:48.94 ID:47ZLOosC
以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
「古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
万石もちの陪臣で長政時代に国中を差配したのだから、後世まで家が存続したんだろう、
と思ってみたが、幕末時の福岡藩に有力な家臣に小河家がない
黒田騒動のときに連座したらしいくらいまでは辿れたのだが、
栗山大膳側について藩主へ諫言でもしたのかいな?
( 2022年11月20日 13:52 )
人間七七四年 | URL | -
黒田家は黒田騒動でも家中がガタガタになるけど光之→綱政の時も黒田騒動並みの衝突があったからね
家臣団の放逐もかなりあったし、色々あって家督を継いだ綱政の藩政で藩主権力掌握の為に大領を持つ重臣を狙い撃ちにした追放や分割相続とかさせている
黒田騒動ばかり言われるけど、元禄期までの黒田藩は良くつぶされなかったなぁと思うほど藩政が安定していない
( 2022年11月20日 14:31 )
人間七七四年 | URL | -
小河は忠之側で栗山と対決してます。
( 2022年11月20日 17:08 )
人間七七四年 | URL | -
※2,3
そうなのかありがとう。
自分の出身地のせいもあって、黒田・福岡藩って黒田官兵衛・長政と黒田騒動あったくらいしか見てなかったが、江戸時代にもいろいろあったんやな。他人事ながらそういう「騒動がある藩」のは好きなんで追ってみてみるわ
( 2022年11月20日 21:17 )
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