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大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

2023年01月10日 19:30

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/09(月) 20:52:34.47 ID:OpVMlt84
続武家閑談」から大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

天正三年(1575年)、権現様三十四歳の時、近藤某に加増をなされた。
この加増は大賀弥四郎の代官所の管轄内であった。
大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、
岡崎城にも参って信康公の御用もなし、信康公も家来も「弥四郎は不可欠の人材だ」とみなした。
しかしいつのまにか身の程をわきまえず、驕り、武辺者でも気がいらなければ讒言したため、大勢に憎まれた。
そんな時、近藤某の加増がなされたため大賀弥四郎は近藤某を自邸に呼び
「今度の加増は我の取りなしによるものだ」と恩着せがましく言った。
近藤はそれを聞き大いに怒り、座を立ち、そのまま御家老衆のところへ直行し
「この度の加増は返上いたします」と告げた。
みなが驚きあきれ、近藤にわけを問うと
「旗本をなぶる大賀のような大悪人の取りなしで加増をされるようないわれはありませぬ」
と答えたため、御家老衆は仔細を尋ねた。
こうして弥四郎の悪事が次々と露見し、そのたしかな証拠も出てきた。
また弥四郎に仕える山田八蔵という者を詮議したところ、武田勝頼に内通して岡崎城を乗っ取ろうという計画が明らかになった。
そこですぐに大賀弥四郎夫妻と子供をからめとり、妻と子供は斬罪に、大賀弥四郎は浜松岡崎城下引き回しののち、岡崎の四辻に首より下は埋められ、竹鋸で引かれた。

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/09(月) 20:57:30.33 ID:OpVMlt84
さて右の近藤某であるが、権現様の御父上の松平広忠公の時、毎度軍忠に励んでいた。
あるとき広忠公が城下で御放鷹をなされた。
近藤は土民に混じって、自ら早苗を取って田植えの最中であったが、広忠公を見るや田の中に顔をつけて泥で顔を隠した。
しかし広忠公に「近藤ではないか」と言われたため
近藤はしかたなく顔をあげ、ところどころ破れた渋帷子という見すぼらしい有様で恥いっていると
広忠公は「主人が小身なために汝ら家中には功績に報いられず、人馬武具を備えるためにこうして苦労をさせてしまうこと、申し訳なく思う。
我も供の者も、人の前に苦労をして、人の後に楽しむべきであろう。
(「後楽園」の元になった「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からだろうか)
今日は我も供の者も早く帰るがよいぞ」
これを聞き、近藤はもちろん、お供のものも皆袖を濡らしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11040.html
かかるお情け深き主君のためには

後の話はだいたい同じ話が前にも出ていた(「三河物語」にも載っている)



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、

    実は大賀弥四郎事件て、近世諸藩でよくあった「新参の改革派」と「譜代の保守派」の対立だったんじゃないかと、ふと
    東海時代の徳川家の歴史なんて三河譜代側の記録しか残ってないだろうし記録に残っている大賀の振る舞いも脚色されてたり

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大神の実の姓は大岡らしいというのを最近ネットで見かけたが、一族の中からのちに大岡忠相や大岡忠光を輩出したあの大岡氏の人間・・・
    だったりするのやら

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