633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:21:30.30 ID:7bZBp8YZ
「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」
天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。
634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:24:15.75 ID:7bZBp8YZ
服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。
「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」
天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。
634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:24:15.75 ID:7bZBp8YZ
服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
神君伊賀越えの、宇治田原ルート説の根拠とされている話ですね。
身も蓋もない事をいえば、結局どのルートも伊賀経由で三河入りしてるんですが
( 2023年02月11日 06:52 )
人間七七四年 | URL | -
>船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
>御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻した
船賃は結局薩摩守しちゃったのか?
( 2023年02月11日 09:04 )
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