670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 15:22:56.61 ID:JlT8fkiM
武田信玄公が二十八歳の時の事。
山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。
その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。
これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。
惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。
『甲陽軍鑑』
武田信玄公が二十八歳の時の事。
山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。
その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。
これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。
惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。
『甲陽軍鑑』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この文書の個々の部分の「兵法」は、体術・武術の類のことかねぇ
( 2023年02月18日 07:16 )
人間七七四年 | URL | -
なんかそんな感じもしますね。でもその前に「武道の手柄」って書いてあるのは…。
>山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ときて、
>ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
からの以下の文章がつながってないというか。
「~兵法に詳しいだけでなく武道の心得もあった。」
とかだとわかるんですけどね。
昔の本だし、単に文章がアレなだけかもしれませんね。
( 2023年02月18日 12:17 )
人間七七四年 | URL | -
「生兵法は大怪我の基」の「兵法」と同じで、剣術・武術のことやね
( 2023年02月18日 15:56 )
人間七七四年 | URL | -
そうなんだ。「兵法」にはそういう意味もあるんですね。
( 2023年02月18日 21:42 )
人間七七四年 | URL | -
「武道の手柄ばかりではなく」のところは、
(脳筋で力押しでもとれる、あるいは部下にやらせて自分のものにする)武道の手柄ばかりではかく、(自分自身の体術が小器用に)兵法上手であった。
とでも補完して読むのかなぁ、と。
( 2023年02月19日 13:55 )
人間七七四年 | URL | -
武道はもともとは、武士が心掛けるべき武事に関する心掛けみたいな広い意味で、兵法は戦いにおける具体的なノウハウ(戦闘技術や用兵術など)って感じなんで、勘助は戦略・戦術レベルの手柄も多かったけど、個人レベルの戦闘術も優れていてその手柄も多かったよ、と言いたいんじゃないか。
武道に引っかかってる人は、銃剣道ができて以後の意味合いで取ってるからかな?
( 2023年02月19日 20:43 )
人間七七四年 | URL | -
※6さん
ありがとうございます
私は「武道の手柄」のところ、頭の中で「武士の手柄」と読み替えていて
この文章おかしくないし不思議でないな、と思っていたが
「武道の手柄」のところを「明治以降の剣道柔道的な、武道の段位として評価されるような手柄・人徳」と読んでいたら
違和感感じていた人もありうるですかな?
同じ現代日本人が現代日本語に訳された文章読んでも、頭の中の前提知識で解釈が異なるというのは注意せねばなりませんな
( 2023年02月21日 18:31 )
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