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「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

2023年03月28日 19:54

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:17:16.21 ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:50:17.66 ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱


「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    なんのアテも無いのに
    行き当たりばったりで謀反を起こして
    その挙句に成功しちまったので
    困ってよそから大将を連れて来るとか、マジで中世やな
    こういうの読んでると、本能寺の変とかもこんなだったかもしれんと思えて来る

  2. 人間七七四年 | URL | -

    wikiレベルでしか知らないけど大宝寺義氏って武田信虎に重なるな
    一代でほぼ一国クラスの領土を獲得したけど戦の連続で家臣からも民からも見限られた
    有能な息子が居たら東禅寺の逆心の時に上手く祭り上げられたかも

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