731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/30(木) 23:47:50.84 ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと
近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。
石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。
その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄
小田原の陣での話はこちらにもあった
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと
近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。
石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。
その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄
小田原の陣での話はこちらにもあった
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コメント
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>寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
>秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
土井利勝(何か今すっごい見られながら言ってた気がする……)
( 2023年04月02日 19:22 )
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