857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:11:23 ID:MKYha2TN
猿と同じ知行
賤ヶ岳の七本槍で知られる平野長泰と加藤清正は友人同士であった。
しかし清正は肥後の国主となったが、長泰は太閤の近習で五千石であった。
あるとき旧友と会話した時、長泰はふと思いついて
「猿に知行をいくらやる」
と聞いた。
所が五千石と答えられた。
長泰は炬燵のやぐらを叩き、拍子をとりながら、
「猿も五千石~♪平野も五千石~♪」
と節をつけて面白おかしく唄いだした。
これは清正の家臣に猿に似た顔の者がいたからである。
858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:12:12 ID:MKYha2TN
清正もむしろ同情の感に耐えぬと見えて、
「平野の程の者が、時人に遇わずとはいえ、
我が家臣と同じ禄とは残念なかぎりである。
そうだ平野、その方肥後へ来るなら一万石をやるぞ」
と言った。
長泰は一万石なら行こうかと悩んだが、
暫くたって長泰座敷の縁側で立小便をしながら考え出した。
859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:13:21 ID:MKYha2TN
肥後へ行くということはとどのつまり、
こうして気楽に小便もできないということである。
遂に破談にした。
その後、長泰の表立った活躍はあまり見られないが、領内においては支配体制を固め、善政を敷き、特に領内における寺内町は「大和の大坂」と呼ばれ、大いなる賑わいを見せたという。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E8%97%A9
大阪の陣もあってから加藤家は断絶したが、
平野家は存続し、明治には大名となった。いわゆる「維新立藩」である。
世の移り変わりとは不思議なものである。
猿と同じ知行
賤ヶ岳の七本槍で知られる平野長泰と加藤清正は友人同士であった。
しかし清正は肥後の国主となったが、長泰は太閤の近習で五千石であった。
あるとき旧友と会話した時、長泰はふと思いついて
「猿に知行をいくらやる」
と聞いた。
所が五千石と答えられた。
長泰は炬燵のやぐらを叩き、拍子をとりながら、
「猿も五千石~♪平野も五千石~♪」
と節をつけて面白おかしく唄いだした。
これは清正の家臣に猿に似た顔の者がいたからである。
858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:12:12 ID:MKYha2TN
清正もむしろ同情の感に耐えぬと見えて、
「平野の程の者が、時人に遇わずとはいえ、
我が家臣と同じ禄とは残念なかぎりである。
そうだ平野、その方肥後へ来るなら一万石をやるぞ」
と言った。
長泰は一万石なら行こうかと悩んだが、
暫くたって長泰座敷の縁側で立小便をしながら考え出した。
859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:13:21 ID:MKYha2TN
肥後へ行くということはとどのつまり、
こうして気楽に小便もできないということである。
遂に破談にした。
その後、長泰の表立った活躍はあまり見られないが、領内においては支配体制を固め、善政を敷き、特に領内における寺内町は「大和の大坂」と呼ばれ、大いなる賑わいを見せたという。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E8%97%A9
大阪の陣もあってから加藤家は断絶したが、
平野家は存続し、明治には大名となった。いわゆる「維新立藩」である。
世の移り変わりとは不思議なものである。
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