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大村純忠、貧乏大名版七人の侍・いい話

2009年03月27日 00:15

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 17:43:47 ID:oYCCnI4H

イエズス会とのからみで大村純忠。

大村家は肥前の貧乏な小大名だった。
当時の痩せた土地は、一族、眷属で細分化され、
彼の家臣に分け与える土地に絶えず窮していた。
また親戚筋でもあると同時に敵でもあった後藤家、有馬家、
更に松浦、西郷家とも抗争と和解を目まぐるしく繰り返す日々であった。

そういう彼を象徴するのが1572年の「三城七騎籠」である。
大村純忠とは縁戚にあたる後藤貴明は、かねがね純忠の領地を狙い侵してきた。
予てよりの申し合わせで松浦氏、西郷氏と共に、
大村純忠の居城の三城に1500の兵で攻め寄せた。
この時不意をつかれた純忠には、中間子者、女子まで含めても80数名しか人数はおらず、
武者は七名のみという有様であった。
家臣の多くは、主君の命運はこれまで、と自宅に籠り参ずる者もいなかった。

孤立した絶望的戦闘であったが、城壁をよじ登る敵には、
女子に砂や熱湯を浴びせさせ、男どもには石礫、木材を投げさせた。
更に怯む敵兵を七人の家臣が巧みに城壁から鉄砲で狙撃し防戦に勤めた。
城の掘り割りの巧みさもあり、松浦方、覇気無く攻めあぐねてしまった。
様子をうかがっていた家臣の中からも、敵の包囲を突破し馳せ参じる者が出始めた。
そして家臣が続々と城内に集まってきた。

ついには攻城を諦めた松浦勢は引き上げてしまった。

「七人の侍」のいわば貧乏大名版である。




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 19:39:56 ID:eYCp60Zy
>>242
七人以外全員内応してたんじゃ…と思ってしまうんだがw

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 19:52:29 ID:9dH0SqFf
たまにこういうことあるけどどういうことなの?
義弘の妻が守る加久藤城攻めた伊東も3000対60とかだったよな?
前線にそれしか詰めてないっておかしくね?

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 00:24:29 ID:NJkhmyWB
>>249
ちょっと考えてみた。
このうちのどれかだと思う。

1.外交関係の問題で兵を張り付けるわけにはいかなかった。
2.城の規模の問題で多数の駐屯が難しく、あまり多くの駐屯は不必要な外交的緊張を招くので避けられた。
3.実はただの特別小さな支城の奮戦。
4.中立だったベネルクス三国を「舗装」して通り道にしてマジノ線を迂回したようなことが起こった。
5.敵の数が誇張されている。
6.昨今の不況のあおりで知行が払えなかった。
7.急に兵士が来たので。

多分7

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 00:32:55 ID:34SJBAE6
加久藤城は義弘の釣り説があるらしい
にしたって援軍は300だが
勝ったけど

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 00:50:46 ID:rBlbF0H9
兵農分離が進んでないところだと
収穫の時期に兵が田んぼに行っちゃうこともあるらしいしね。

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 01:09:00 ID:jS6l8bKs
悪い話の方で行軍速度の話があったけど

かつての大名行列は宿場でも木賃に泊まり
戦での行軍と同じように各自が自炊して腰兵糧を作っていました。
ですが近頃では旅籠に泊まって飯を買うようになったいます。

という話を聞いた前田利常が「戦乱の世に旅籠はあるまいに」と言ったという話がある。
前田家ではその後も木賃に泊まり続けたので「前田家は武士の心がけを失っていない」と評判になった。
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