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「浦戸一揆」と桑名吉成・悪い話

2009年04月03日 00:01

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/02(木) 18:45:38 ID:xtGasogd
関ヶ原合戦後、長宗我部盛親は沙汰を受けるため、供廻りだけで上方へ赴いた
しかし、盛親はそのまま留め置かれ、代わりに土佐にきたのは知行没収を伝える使者だった
この処置に憤激した一領具足ら数百、浦戸城引渡しを阻止しようと籠城の挙に出た
「浦戸一揆」の勃発である

ただ、正規の武士ではない一領具足では、城を乗っ取ることはできない
そこで、彼らは重臣の一人を総大将に担ぎ上げた
武勇で名高い桑名弥次兵衛吉成である

が、吉成、実は恭順派の人物だった
彼だけでなく、重臣達は盛親の身を案じ、また世の趨勢を見て反抗の虚しさを悟っていた
吉成は城内に味方を作り、城外の恭順派軍勢に呼応させた
総大将が内通者という前代未聞の状態、籠城側に勝ち目はない
数百の一揆勢はことごとく斬り捨てられ、浦戸城は解放された




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/02(木) 20:32:01 ID:tQTsm0rq
一領具足たちの見る目のない話、か

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/02(木) 23:30:13 ID:3ueNsgHk
それぞれ主君を思って行動したってのがまた・・・

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 05:26:21 ID:XuyjypDR
もともと長曽我部は東軍につくはずだったのにどういうわけか西軍に…
大阪の陣の話を聞くと勇ましい印象を受けるが実際は戦の経験が乏しい凡将

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 07:38:36 ID:rhSwgrUF
東軍に付くつもりが西軍に・・・なんて人達多いけどな。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 09:07:01 ID:6vwyKgVp
>>379
どったの急に

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 09:07:06 ID:N7tvMZBy
>>380
そのあたり、ホントかどうかって気がする。

経緯はどうあれ西軍についた者達が、実は違うんだ、大権現さまに逆らうつもりは
なかったんだよといいたいための話なんじゃないかなあと。

384 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/03(金) 10:54:23 ID:/BAiEoiZ
そこいくと、中身の真偽はどうあれ、
取り敢えず権現殿に宣戦布告した誰かさんはいっそ清々しいな。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 11:49:24 ID:SDY6PbGA
>>384アントキノ景勝兼続タッグか

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 14:15:18 ID:5GwI3JUW
120万を30万にした収容の匠

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 14:37:29 ID:luwcxnEo
なんということでしょう。
120万石もあった石高が匠の業でこれだけのスペースに
家臣を解雇せずに恩を着せる気配りはさすがに匠です

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 14:54:59 ID:ajnIRBWi
なんと今ならさらに半分の15万石に!

389 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/03(金) 16:25:27 ID:9KDdcSc0
なんというテレフォンショッピングwww

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 16:54:50 ID:3OFMjjNZ
>>384
なんか謝罪に上洛したときもその主従はまったく悪怯れた様子がなかったらしいな。
関ケ原後も妙に反抗的とも取れそうな態度の逸話ばっかだし。
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