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新納忠元「びびった話」

2009年04月05日 00:10

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 14:10:33 ID:bNsp1PBr
びびった話

関ヶ原で西軍が敗北した、との報を受けて薩摩はおおわらわ。
(この時点では義弘はまだ生死不明の扱い)
九州方面の東軍への対応を迫られることになった。

肥後の加藤と対峙するになったのは鬼武蔵こと新納忠元だが
兵力不足は如何ともし難い。

そこで鬼武蔵さん、残された女子供の士気を高めるために数え歌を考えた。
数え歌と言っても忠良や義久の「いろは歌」のようなお行儀の良い歌ではない。
たとえばこんな感じ。

1番
 一つとや、肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子会釈、
 それでも聞かずに来るならば、首に刀の引き出物。
 ※団子=鉛の団子=弾丸の意

10番
 十つとや、咎なき敵を法もなく、殺さば後の罪作り
 弱き加藤はそのままに、いざや仁愛加えおけ

最初は「肥後の加藤勢が攻めてきたら鉄砲に刀で出迎えてやれ」という挑発的な歌だったのだが
10番になる頃には「あいつら弱いんだから丁重に扱ってやれ」とおちょくるような内容になっている。

こんな感じの数え歌を10番まで作って地元の女子供に歌わせたもんだから士気は大いに上がり、
「薩摩に残っているのは女子供だけだろう」と侮っていた清正も考えを改めて出陣を考え直した。
これが功を奏して義弘帰還後の体制の立て直しの時間稼ぎになったとか。

和歌を歌いながら合戦したり、巧みな返歌で細川幽斎に褒められたりしている鬼武蔵だが、
彼の教養はこういうことにも活かされていた。
(口が悪いだけとか言わないように)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 14:24:00 ID:Zes1NvrU
関が原で清正と対峙ってその時はもう家康や義弘でも爺さんなのに親指武蔵いくつだよ…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 14:54:38 ID:bNsp1PBr
>>473
マジレスすると74歳。
朝倉宗滴並に生涯現役を地で行く人。
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