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大阪夏の陣、大和郡山城攻めと松倉重政・いい話

2009年04月17日 00:06

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/16(木) 18:55:45 ID:FOt7tlOD
大阪夏の陣の前哨戦、慶長二十年(1615)四月、大阪方、大野治房の部隊が
大和を攻めた時の事である。
当時、大和郡山城を守っていたのは筒井定慶であったが、守備兵が少なく、大阪方の軍に
かなわぬと、たちまち逃亡、郡山城は落城する。
この時大阪方は、各地に放火するなど多くの乱暴を働いた。

郡山に残った間宮光信は、周辺の諸将に救援を依頼した。「どなたも、早く駆けつけていただきたい!」
が、大阪方の威勢を恐れてか、緊急に駆けつけようとする者はいなかった。
間宮も風前の灯火と見えた、その時である。

猛然とした勢いで、一隊が駆けつけた!
よほど急いだのであろう、侍達は皆裸足。大将も甲冑すらつけていない。
しかし、その勢いのまま大阪方に突進した。

それは大和五条二見城主、松倉重政であった。

松倉ははかねてより、間宮と友人であった。彼は間宮の窮状を聞くや否や、
「友を置き捨てるのは侍の本意ではない!」と、準備もそこそこに出撃、夜を徹して駆け抜け、
間宮を救出に現れたのだ。

この、不意の攻撃に大阪方は大いに算を乱し、三十余名が首を討たれ、郡山から撤退したとの事である。


後のキリシタン弾圧などで、島原の乱の元凶の様に扱われ、後世の評判の悪い松倉重政。
が、このように、友のために命を懸けるほどの、情に熱い男でもあったのだ。

松倉が城主をしていた奈良県五條市では今も、彼を名君として称えている。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    松倉重政は戦国のラストチャンスである大阪の陣で、見事4万石の大名になってるし、新領国でも海岸線の堤防や松林の植林によって塩害を防ぎ、その功績は現代でも評価されてる程。
    キリシタン弾圧のせいで不当に評価が低いけど、もっと注目されてもいいと思う。
    重税の原因となった島原城も、外国の侵略に対応する為に巨大な城になったわけだし。キリシタン弾圧も最初は適当で、幕府に怒られてから厳しくなった。
    しかも、ルソン出兵まで計画してたんだから、ある意味、時代に間に合わなかった英雄だったかも・・・

  2. 人間七七四年 | URL | -

    だよなぁ。
    松倉重政って島原での件が彼の評価の全てになってるけど、でもどんなヤツにだってイイトコはあるし、色んな面があると思う。
    なんかそんな当たり前のことを、改めて感じた逸話だったな。

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