862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 14:56:47 ID:qFkDF/2M
戦国「後」の、世の中
渡辺勘兵衛が睡庵と名乗り、坂本に居住していた頃の事である。
渡辺の家来が大津の町で喧嘩騒ぎを起こした、と言う話が広まった。
これを聞いた、友人で、元の福島家臣であり、正則改易後牢人をしていた吉村又右衛門は
京より坂本に駆けつけた。
坂本の自宅に現れた吉村に、渡辺
「吉村殿、今日こられた用件が喧嘩見舞いであるのなら、特にさしたることもないゆえ
帰られよ。
何か話でもしたいと思ってこられたのならどうぞ、うちで飯でも食って語り合いましょう。」
心配して急いでやってきたのだ。感謝されることこそあれ、この渡辺の態度はどうか。
吉村、気を悪くし「いや、喧嘩の沙汰を聞いたので見舞いに来たまでです。そのような事であれば、
これで帰ろう。」
「そうか…。では、少々待たれよ。」
渡辺は次男を吉村につけ、街道まで見送りをさせた。
道すがらこの次男は、「父から、密かに吉村様に伝えよとの、言付けがあります。」と語りだした。
その内容はこうだ。
『吉村殿、今日の見舞いの事は、吉村殿には似合わぬ行動ですぞ。
今は天下の大法が定まり、もし我が家来が殺されれば、殺したものは切腹を申し付けられ、
逆に人を斬れば我が方の者が切腹を申し付けられる、そう言う世の中になりました。
しかれば、喧嘩であっても無責任に放置する事はできません。
そうであるのに、喧嘩騒ぎがあったこのようなときに、吉村又右衛門ほどの剛の者が
京都より渡辺の下に来たと知られれば、双方の徒党を組んだ若者達を刺激する事は間違いなく、
いたずらに事態を悪化させるでしょう。
そのような事なので、今回は慎んで頂いたのです。』
戦国の自力救済社会からの転換が、はっきりと感じられる、そんな、戦国が遠くになった頃のお話。
戦国「後」の、世の中
渡辺勘兵衛が睡庵と名乗り、坂本に居住していた頃の事である。
渡辺の家来が大津の町で喧嘩騒ぎを起こした、と言う話が広まった。
これを聞いた、友人で、元の福島家臣であり、正則改易後牢人をしていた吉村又右衛門は
京より坂本に駆けつけた。
坂本の自宅に現れた吉村に、渡辺
「吉村殿、今日こられた用件が喧嘩見舞いであるのなら、特にさしたることもないゆえ
帰られよ。
何か話でもしたいと思ってこられたのならどうぞ、うちで飯でも食って語り合いましょう。」
心配して急いでやってきたのだ。感謝されることこそあれ、この渡辺の態度はどうか。
吉村、気を悪くし「いや、喧嘩の沙汰を聞いたので見舞いに来たまでです。そのような事であれば、
これで帰ろう。」
「そうか…。では、少々待たれよ。」
渡辺は次男を吉村につけ、街道まで見送りをさせた。
道すがらこの次男は、「父から、密かに吉村様に伝えよとの、言付けがあります。」と語りだした。
その内容はこうだ。
『吉村殿、今日の見舞いの事は、吉村殿には似合わぬ行動ですぞ。
今は天下の大法が定まり、もし我が家来が殺されれば、殺したものは切腹を申し付けられ、
逆に人を斬れば我が方の者が切腹を申し付けられる、そう言う世の中になりました。
しかれば、喧嘩であっても無責任に放置する事はできません。
そうであるのに、喧嘩騒ぎがあったこのようなときに、吉村又右衛門ほどの剛の者が
京都より渡辺の下に来たと知られれば、双方の徒党を組んだ若者達を刺激する事は間違いなく、
いたずらに事態を悪化させるでしょう。
そのような事なので、今回は慎んで頂いたのです。』
戦国の自力救済社会からの転換が、はっきりと感じられる、そんな、戦国が遠くになった頃のお話。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
手を取り合って支え合えるような親しい間柄でも、おいそれと助け合えなくなった時代の到来…。
それはそれで悲しいですね。
( 2021年02月23日 03:34 )
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