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建部三十郎家臣、興十郎の野望

2009年06月27日 00:09

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:23:35 ID:45gTEMVr
大阪の陣が始まろうと言う頃のことである

尼崎に、わずか8歳の領主、建部三十郎と言う者がいた。
領地も小さく、僅か五百石であった。

蒲生家牢人、興十郎は、この三十郎付きの家臣であった。
興十郎には野望があった。どうにかして、この幼い三十郎君を、取り立てていただくのだ。

大阪と関東の間には既に、不穏な空気が流れていた。
もし会戦した場合、幕府軍にとって、尼崎は大阪攻め戦略の重要拠点になる。

「そうだ!」

興十郎は家康に通じ、三十朗の名で誓紙を出した。
それから「秀頼公からのご命令である」と、尼崎近郊の庄屋を呼び集め、突然宣言をする
「お前達、早々に人質を出すように!もし異論あらばここで成敗する!」

このようにして興十郎は人質として、庄屋達の妻子兄弟を集め、それをことごとく
尼崎の屋敷に入れた。そして「もし我々に反抗するなら、人質を焼き殺す!」と、威した。

さらに主君三十郎にも、「もしこの謀が失敗した時は、三十郎君はそれがし、そして
人質とともにここで焼け死んでいただきます。」と、覚悟をきめさせた。
幼少の主君は、この家臣を信じた。

また、三十朗の母には、その時には三十朗の弟を連れ、親類である池田家に逃げるようにと、
あらかじめ決めていたそうだ。

関東と大阪が手切れとなった時、興十郎の措置のおかげで、尼崎で大阪に通じる者は無く、
ことごとく幕府方に従ったそうだ。

戦後、幕府は建部三十郎の功に対し、一挙に二十倍、一万石の所領が与えられた。
そう、ギリギリではあるが、大名に取り立てられたのだ。この時三十郎、12歳。

ちなみに興十郎は、建部の姓を与えられ、主君の親族扱いとなり、
伊丹有岡城の代官となったそうである。彼もまた、小さいながら城持ちとなった。

ちなみに、この時出来た建部氏林田藩は、外様ながら改易されることもなく無事、明治まで
続いた。

乱世の最後に、小さいながらも実を結んだ、とある野望のお話。





787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:31:26 ID:tkYs3VGa
博打打つなぁ
まぁ世の中見えてないとこんな博打考えつかないから優秀な家臣だったことに違いはない

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 23:45:00 ID:9bCDjiSp
しみるねぇ・・・

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:03:10 ID:LwPdU1EY
>>786
久々に清々しい気分になったよ。いい話だな~

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:06:24 ID:55A3U5n0
>>786
日本史板某スレで弱小藩ネタで盛り上がったときに話題となった林田藩には
そんな誕生秘話があったんですね・・・
関西の住人で「林田藩」と言ってもどこにあったか即答できる人は0.1%以下でしょうけどw

ちなみにそのスレで林田藩以下に存在感のない藩として認定されたのが仁正寺藩(市橋氏)だった・・・

809 名前:奇矯屋onぷらっと@非常用PC ◆ZawoPLATttff [sage] 投稿日:2009/06/26(金) 09:40:03 ID:tejLW0Bv
>>786
ググってみたらその三十郎、下間頼龍の外孫なんだな。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:39:39 ID:THqWf7pA
建部氏林田藩ってほとんどの藩主が70歳から80歳ぐらいまで生きてるな。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 21:26:19 ID:OJq6uNOW
>>816
じゃあ幼い殿様はギリギリ戦国の語り部になったのかな
ググったら外様だけど池田家の親戚なせいかわりと重用されてて
色々な仕事やってた


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