877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:05:00 ID:HYfzE76o
意外な人の忠義(?)の話
関ヶ原の戦いの後、薩摩に逃れた宇喜多秀家は、徳川と島津家久(忠恒)らの交渉により
死一等減じて八丈島に流罪となった。薩摩を去る日、秀家は家久に感謝しつつ言った。
「落人の身を今日まで養っていただき、感謝する術が無い。私には二人の家臣がいる。
玉川義則と山田半助と言い、節義ある士だ。この二人を、あなたに仕えさせてほしい。」
家久は了承し、二人は島津の家臣となった。
このうち玉川が馬術・弓術の達人と聞いた家久は、その馬術を試すことにした。
馬術披露の当日、三原重庸が玉川のために引いて来た馬を見て、家久は激怒した。
「それは誰も乗りこなせぬ悍馬ではないか!うぬら玉川を新参と侮り、辱めんとするか?!
ええぃ、オレの“小澤”を引け!あれは良い馬だ、玉川にくれてやれ!」
のちに玉川改め本郷伊予守義則は、
「薩摩に使えるのは、私の本意ではなかった。「士は二君に仕えず」とあるように、
十年働いて恩を返した上で、八丈島に行くつもりだった。
だが、家久様のお言葉は私の臓腑を貫き、今や薩摩を去るに忍びぬ。
これよりは一心に家久様に仕えん・・・」そう言って涙したという。
その後しばらくして、城近くで火事があり、筆頭家老・伊勢貞昌は馬で城に急行した。
家伝の馬術を誇る貞昌に先んじて、城門の前に弓を持った騎馬の士がいた。
「はて、わしに先んずるは何者だ?」
「本郷伊予にござる。新参者の私は騒動の中、城に入るべきではないでしょう。ここで異変に
備えまする。ご家老、早く城中を守られたし!」その態度に、貞昌は大いに感じ入った。
本郷義則はその馬術・弓術の全てを薩摩に伝え、慶長二十年、惜しまれつつ世を去った。
家久はこれを悲しみ、一首を詠んだ。
馴れ馴れし 見し世の春も 限りぞと 移ろう花の 跡の悲しき
本郷の教えた日置流印西派弓術は伊勢貞昌の従弟・東郷重尚が継ぎ、今に伝えている。
ちなみに同じ日置流印西派を学ぶ法政大学弓道部は、全国大学選抜大会6回、
全関東学生選手権大会11回、全日本学生選手権大会8回、全日本学生王座12回の
優勝回数を誇る、学生弓道界の雄である。
878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:14:09 ID:hSDVW8B5
家臣には配慮する方だよな家久(忠恒)
主君の配慮を心から理解して分を弁え驕らない家臣もまた良し
忠義の士の技が400年経って今でも継承されている
素晴らしいね
879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:35:55 ID:E7TzFuK6
>>878
まだあなたは本当の家久(悪)を知らない・・・w
餃子の王将が卵一日100万個使うように
家臣を殺しているお方ですぜ
おっとこれ以上はスレ違いなんでまた後日・・・
880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:45:12 ID:5xqYO+cU
ふと思ったんだけど
宇喜多秀家って朝鮮渡海やら薩摩への逃亡やら
八丈島への配流やらで移動距離が半端ないですな。
881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:46:22 ID:OU016/pP
…山田半助さんは?
悪久さんに苛められて黒歴史になってるとか?
882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:56:58 ID:HYfzE76o
>>881
元ネタの注に「或云半助ハ早ク国ヲ去ル」とあるので浪人として過ごしたか、
八丈島にでも行って無名で終わったんでしょう。
きれいな悪久だって存在するんですよw
883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:26:05 ID:+FKB6IvA
ああ、良い奴が良い事してもあまり印象に残らないけど
DQNが良い事すると凄い印象に残るということだな
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:31:48 ID:wSvR6dOs
本郷義則、調べてみたら石高多く貰ってるな。
慶長十八年の記録で1307石。
山田有栄が同じ年度で1806石だから破格の待遇じゃないか。
885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:41:58 ID:ELyd+h32
お気に入りとは言え新参者に家老待遇か
ホント悪久さんは「家臣には」優しいな
886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:20:00 ID:E7TzFuK6
>>884
うわ・・・こんなむけむけのことしてよく山田とか怒らなかったな。
確かこのころ新納忠元家なんかは1000石きってたのではなかった?
要は旧臣には自分の素性がバレバレだから
新参者を優遇して自分の言うことをきく親衛隊を作ろうとしてたのかも知れないな。
887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:48:01 ID:wSvR6dOs
>>886
それはわからんけど、山田は寛永九年には2656石になってるから
勘繰るほどの事は別にないんじゃない?
889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:56:22 ID:hSDVW8B5
能力持ってる奴を優遇しただけかもな
890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 01:11:49 ID:V1w/Sqt0
能力もそうだし、名分上も貰い受けた家臣だからそう粗略には扱えなかったのかもな。
弱味につけこんで安く買い叩いたなんていわれたくなかろう。
891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 03:32:36 ID:zngWal9A
佐竹家みたいに戦乱から太平の世に変わりゆく中で人事異動が激しかったんじゃないかねえ
体制システムも変化していくし、新参でも有能なら厚遇、古参でも言うこと聞かないならビッシバッシ
892 名前:884[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 13:01:29 ID:KNH6/L5Z
追記だが、慶長十八年に於ける筆頭家老・伊勢貞昌の碌は2531石。
山田自身が我々が思ってるほどに、そのときは高い地位を得てなかったと
考えた方が妥当かも知れん。
ちなみに伊勢貞昌、寛永九年には3812石になってる。
急激な碌の上がり方は、義久の旧臣殺して浮いた分を与えたのか、
はたまた諸県地区の開拓推進がうまくいったためか。
894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 18:41:46 ID:/d9JjttW
>>883
映画版のジャイアンの事ですね。
意外な人の忠義(?)の話
関ヶ原の戦いの後、薩摩に逃れた宇喜多秀家は、徳川と島津家久(忠恒)らの交渉により
死一等減じて八丈島に流罪となった。薩摩を去る日、秀家は家久に感謝しつつ言った。
「落人の身を今日まで養っていただき、感謝する術が無い。私には二人の家臣がいる。
玉川義則と山田半助と言い、節義ある士だ。この二人を、あなたに仕えさせてほしい。」
家久は了承し、二人は島津の家臣となった。
このうち玉川が馬術・弓術の達人と聞いた家久は、その馬術を試すことにした。
馬術披露の当日、三原重庸が玉川のために引いて来た馬を見て、家久は激怒した。
「それは誰も乗りこなせぬ悍馬ではないか!うぬら玉川を新参と侮り、辱めんとするか?!
ええぃ、オレの“小澤”を引け!あれは良い馬だ、玉川にくれてやれ!」
のちに玉川改め本郷伊予守義則は、
「薩摩に使えるのは、私の本意ではなかった。「士は二君に仕えず」とあるように、
十年働いて恩を返した上で、八丈島に行くつもりだった。
だが、家久様のお言葉は私の臓腑を貫き、今や薩摩を去るに忍びぬ。
これよりは一心に家久様に仕えん・・・」そう言って涙したという。
その後しばらくして、城近くで火事があり、筆頭家老・伊勢貞昌は馬で城に急行した。
家伝の馬術を誇る貞昌に先んじて、城門の前に弓を持った騎馬の士がいた。
「はて、わしに先んずるは何者だ?」
「本郷伊予にござる。新参者の私は騒動の中、城に入るべきではないでしょう。ここで異変に
備えまする。ご家老、早く城中を守られたし!」その態度に、貞昌は大いに感じ入った。
本郷義則はその馬術・弓術の全てを薩摩に伝え、慶長二十年、惜しまれつつ世を去った。
家久はこれを悲しみ、一首を詠んだ。
馴れ馴れし 見し世の春も 限りぞと 移ろう花の 跡の悲しき
本郷の教えた日置流印西派弓術は伊勢貞昌の従弟・東郷重尚が継ぎ、今に伝えている。
ちなみに同じ日置流印西派を学ぶ法政大学弓道部は、全国大学選抜大会6回、
全関東学生選手権大会11回、全日本学生選手権大会8回、全日本学生王座12回の
優勝回数を誇る、学生弓道界の雄である。
878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:14:09 ID:hSDVW8B5
家臣には配慮する方だよな家久(忠恒)
主君の配慮を心から理解して分を弁え驕らない家臣もまた良し
忠義の士の技が400年経って今でも継承されている
素晴らしいね
879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:35:55 ID:E7TzFuK6
>>878
まだあなたは本当の家久(悪)を知らない・・・w
餃子の王将が卵一日100万個使うように
家臣を殺しているお方ですぜ
おっとこれ以上はスレ違いなんでまた後日・・・
880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:45:12 ID:5xqYO+cU
ふと思ったんだけど
宇喜多秀家って朝鮮渡海やら薩摩への逃亡やら
八丈島への配流やらで移動距離が半端ないですな。
881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:46:22 ID:OU016/pP
…山田半助さんは?
悪久さんに苛められて黒歴史になってるとか?
882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 21:56:58 ID:HYfzE76o
>>881
元ネタの注に「或云半助ハ早ク国ヲ去ル」とあるので浪人として過ごしたか、
八丈島にでも行って無名で終わったんでしょう。
きれいな悪久だって存在するんですよw
883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:26:05 ID:+FKB6IvA
ああ、良い奴が良い事してもあまり印象に残らないけど
DQNが良い事すると凄い印象に残るということだな
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:31:48 ID:wSvR6dOs
本郷義則、調べてみたら石高多く貰ってるな。
慶長十八年の記録で1307石。
山田有栄が同じ年度で1806石だから破格の待遇じゃないか。
885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 22:41:58 ID:ELyd+h32
お気に入りとは言え新参者に家老待遇か
ホント悪久さんは「家臣には」優しいな
886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:20:00 ID:E7TzFuK6
>>884
うわ・・・こんなむけむけのことしてよく山田とか怒らなかったな。
確かこのころ新納忠元家なんかは1000石きってたのではなかった?
要は旧臣には自分の素性がバレバレだから
新参者を優遇して自分の言うことをきく親衛隊を作ろうとしてたのかも知れないな。
887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:48:01 ID:wSvR6dOs
>>886
それはわからんけど、山田は寛永九年には2656石になってるから
勘繰るほどの事は別にないんじゃない?
889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 23:56:22 ID:hSDVW8B5
能力持ってる奴を優遇しただけかもな
890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 01:11:49 ID:V1w/Sqt0
能力もそうだし、名分上も貰い受けた家臣だからそう粗略には扱えなかったのかもな。
弱味につけこんで安く買い叩いたなんていわれたくなかろう。
891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 03:32:36 ID:zngWal9A
佐竹家みたいに戦乱から太平の世に変わりゆく中で人事異動が激しかったんじゃないかねえ
体制システムも変化していくし、新参でも有能なら厚遇、古参でも言うこと聞かないならビッシバッシ
892 名前:884[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 13:01:29 ID:KNH6/L5Z
追記だが、慶長十八年に於ける筆頭家老・伊勢貞昌の碌は2531石。
山田自身が我々が思ってるほどに、そのときは高い地位を得てなかったと
考えた方が妥当かも知れん。
ちなみに伊勢貞昌、寛永九年には3812石になってる。
急激な碌の上がり方は、義久の旧臣殺して浮いた分を与えたのか、
はたまた諸県地区の開拓推進がうまくいったためか。
894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 18:41:46 ID:/d9JjttW
>>883
映画版のジャイアンの事ですね。
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コメント
名無しさん@お腹いっぱい。 | URL | -
家久評判悪すぎワロタ
たとえば馬の一件で頼宣が同じ事してたとして
「俺の中で頼宣の株がストップ高」
「また頼宣の評価があがった」
「南龍公はやはりさすがだな」
とかいうレスが付いたろうに…
それを「悪い奴がいいことしたからより良く見えるだけ」とは。
何だろう、この人達の頭の中には
徹頭徹尾キチガイの悪人か聖人君子のどちらかしかいないんだろうかw
( 2009年06月29日 21:13 )
人間七七四年 | URL | a4cSR5Iw
だって頼宣と忠恒じゃ日頃の行いが違い過ぎる
普段子犬を蹴っ飛ばして歩いたりしてる奴が
たまに子犬を拾ったりしても
人それを「気まぐれ」と言う訳で
( 2009年06月29日 23:49 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
まあどっちの考え方もありなんだろうけど、
でも一部の人らはあまりにも固定した観念で断じ過ぎてるきらいがあるような気はするな。
オレは今、相良氏の事を調べてるけど、相良家史料はあまりにも相良の都合よく書かれ過ぎてて、他家の史料にないような有利な文章が多分に存在するし、誤字も多すぎる。しかもそれらは殆どが義陽の頃から百年近く経ってから書かれたものだから、相当に疑わしい。
そこへこの前の「甲斐宗運の史料とは違う」という話を書いたんだが、義陽の事を悪く書くコメントが上がらなかった。
調べてる側とそうじゃない側に温度差があるのはしょうがないけど、なんか全て固定観念で処理されてるようで空恐ろしく感じたというのはある。
だから、>この人達の頭の中には 徹頭徹尾キチガイの悪人か聖人君子のどちらかしかいないんだろうか
・・・という書き込みが、オレには実感としてわかる気がするんだよな。
( 2009年06月30日 00:47 )
人間七七四年 | URL | -
なんか最近でも勘違いしてる人いるけど本スレは
戦国のホロリとくる「エピソード」を挙げていこう
戦国のちょっと悪い「エピソード」を挙げていこう
という(実際の書状紹介なんかもあるけど)あくまでも逸話・昔話を楽しむスレ
逸話の真贋だの検証だのをする所じゃないよ
レスもノリツッコミぐらいに考えとけばいいよ
これまた話を鵜呑みにしてマジ発言してる人もいるけど…
( 2009年06月30日 01:09 )
2009/06/30 Tue 00:47 のコメ主 | URL | -
あくまで自身の気持ちの面を書いただけなんだが、なんか勘違いさせてしまったようで申し訳ない。
検証を望む場合は検証スレか、個別のスレに書くからご心配なく。
それ以前に検証を他人に委ねないけどさ。
( 2009年06月30日 02:44 )
人間七七四年 | URL | Aszvn8R.
どっちにせよあの逸話って疑心暗鬼で協力者討っちゃった甲斐さんの悪い話なんじゃないかと思った
( 2010年01月11日 00:10 [Edit] )
koryufan | URL | 3/qHD1lo
本郷伊予守義則に指導を受けた弓術は、「薩摩日置流」として現在も出水市で継承されています。甲冑を着けた射法も伝えており、日本の古流弓術を知るには貴重な流派です。
( 2011年02月05日 11:53 [Edit] )
koryufan | URL | 3/qHD1lo
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4223.htmlにお礼を書こうと思うのですが、なぜか書き込めません。こちらに書かせてもらいます。
日置流が弓術の世界でメジャーデビューをなしえたのは、「合戦で成果を上げた」という仮説を立てています。吉田一族は六角佐々木に属していたので観音寺城ではないかと見込んでいたのですが、貴ブログに出会えてとても嬉しいです。近江で活躍すれば、京のうわさになり子孫は弓術で生計を立てることが可能となったでしょう。私は弓引きでして日本史の知識が不足しています。これからも貴ブログで学ばせてください。私の掲示板に貴記事を紹介させて頂きましたので、お許し願います。
( 2011年02月05日 12:09 [Edit] )
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