798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:06:48 ID:pZAbnaCb
天文年間の事だそうだ
大和国、大峰に全国の山伏が集まって修験した事があった。
その時伊予の修験者福生院と、美濃の修験者利勝院とが、席順をめぐって争いとなった。
悪い事に、福生院は西国に、利勝院は東国にそれぞれ大きな影響力を持つ修験者で、
この争いはたちまち、東西の修験者の大喧嘩となった。
そして福生院は与党の山伏を引き連れ帰国、やがて土佐の貝が森にたてこもり、
三年にわたって紫燈護摩の祈祷を行い、その間西国の山伏達を糾合、そのため貝が森の山伏は
大勢力となった。
これを聞いた利勝院は脅威を感じ、彼らの復讐を受ける前にと、東国の山伏を集め軍勢を組織、
船団を組み、観音崎の有る土佐の下の加江に上陸。近江国の金剛院を先鋒に
貝が森に攻め寄せた。
不意を突かれた貝が森の福生院党はたちまち壊乱、敗走した。
福生院は部下の金王院、南蔵院等をつれて伊予へと逃れようとしたが、途中の長瀬という場所で
金剛院の軍勢に追いつかれ、ついに討たれた。
だが、この時金剛院も傷を受け竹部と言う場所まで引き返したものの、そこで斃れた。
そして東軍の大将である利勝院も、攻め懸けた折に負傷し、貝が森まで引き上げたときに
「この地に美濃国蔵王権現を祭れ」と言って、自害したとのことである。
この事は「貝が森くずれ」と呼ばれ、この周辺には、この時死んだ山伏達を弔った墓石が、
今も処々に残っているのだという。
山伏の東西合戦のお話。
800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:31:00 ID:B/99TFaR
>>798
とんでもない怨念がこもってそうだなあ・・貝が森
802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:00:47 ID:QQMmacwE
山伏って独立独歩なイメージがあったけど徒党も組んだんだな
天文年間の事だそうだ
大和国、大峰に全国の山伏が集まって修験した事があった。
その時伊予の修験者福生院と、美濃の修験者利勝院とが、席順をめぐって争いとなった。
悪い事に、福生院は西国に、利勝院は東国にそれぞれ大きな影響力を持つ修験者で、
この争いはたちまち、東西の修験者の大喧嘩となった。
そして福生院は与党の山伏を引き連れ帰国、やがて土佐の貝が森にたてこもり、
三年にわたって紫燈護摩の祈祷を行い、その間西国の山伏達を糾合、そのため貝が森の山伏は
大勢力となった。
これを聞いた利勝院は脅威を感じ、彼らの復讐を受ける前にと、東国の山伏を集め軍勢を組織、
船団を組み、観音崎の有る土佐の下の加江に上陸。近江国の金剛院を先鋒に
貝が森に攻め寄せた。
不意を突かれた貝が森の福生院党はたちまち壊乱、敗走した。
福生院は部下の金王院、南蔵院等をつれて伊予へと逃れようとしたが、途中の長瀬という場所で
金剛院の軍勢に追いつかれ、ついに討たれた。
だが、この時金剛院も傷を受け竹部と言う場所まで引き返したものの、そこで斃れた。
そして東軍の大将である利勝院も、攻め懸けた折に負傷し、貝が森まで引き上げたときに
「この地に美濃国蔵王権現を祭れ」と言って、自害したとのことである。
この事は「貝が森くずれ」と呼ばれ、この周辺には、この時死んだ山伏達を弔った墓石が、
今も処々に残っているのだという。
山伏の東西合戦のお話。
800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 19:31:00 ID:B/99TFaR
>>798
とんでもない怨念がこもってそうだなあ・・貝が森
802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 20:00:47 ID:QQMmacwE
山伏って独立独歩なイメージがあったけど徒党も組んだんだな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
山伏も人なので講を組んで修行するのはわかる。一人でやるより競いあう方が修行もはかどる。
でも土佐の貝ヶ森なんて行場として聞かないななぁ。伊予の行者なら石鎚山に篭れよ。
原典を知りたいところ。
( 2010年01月31日 16:36 )
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